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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

米屋のパン/シールの謎/蚤の市

府立図書館へ本を借りに行った。あたたかい日が増えてきて自転車で走るのが楽しい。途中の米屋でお昼ごはんにするパンを買った。米屋でパンを買う、というとおかしな話に聞こえるけれど嘘ではない。老舗らしいその米穀店はお昼になるとパンを売る。使い古された浅い木箱に、惣菜パンや菓子パンや、頭をこんがり黒く焼かれた食パンが並ぶ。散歩中に偶然店を見つけてから、府立図書館へ行く時にはここでパンを買って、公園で食べるのを楽しみにしている。なんでも、炊いたご飯を小麦のパン生地に混ぜて、餅つき機でこねて焼いているらしい。どっしりもっちりしていて腹持ちがいい。今日はマヨコーンと桜あんのパン。
図書館の手前で、目の端に異様なものが見えた気がしてブレーキをかけた。工事現場の目隠しのために仮囲いが立っている。蔦で覆われたレンガの壁がプリントされているのだが、そこにおびただしい数の、シールを剥がした跡がある。百や二百ではきかない。千を超えているかもしれない。跡はみんな同じ形で、名刺をふたまわり小さくしたような長方形。仮囲いの端から端まで白い帯のように続いており、数十センチの幅があるものの、おおむね地上百五十センチから百六十センチ、つまり目の高さに集中している。なんなんだこれは。自転車を降りてじっくり眺めてみた。あまりにも跡が多いので、蔦の葉と混ざって別種の植物の葉のようにも見える。シールを貼った人と剥がした人のことを考える。貼って剥がす。貼って、剥がす。千枚のシール。ひとりが貼ったのだとしたら執着心が怖いし、妙に丹念に剥がされているのも怖い。よく見ると端っこの方に二枚だけシールが残っていた。竹を抽象化したようなマークと、ARTというアルファベットが読み取れる。ではこれは芸術作品なのだろうか。何かの主義主張が込められているのだろうか。わからなかったが、満足するまで眺めてから自転車で走り出すと、すぐそばの蕎麦屋の前に行列ができていた。最後尾に並んだ五十歳くらいの男性三人組の胸に、あのシールを見つけた。一度通り過ぎたが、どうしても我慢できずに引き返し、すみません、その胸のシールってなんですか、と訊いた。おじさんのひとりが、ああこれは、と親切に教えてくれた。入場券ですよ。そこの美術館の。そして隣の建物を指さした。どういうわけか、訪れた人があの仮囲いに貼って帰ってしまうらしいのだった。ありがとう、これこれこういうわけで気になっていたんです、と理由を話しておじさんたちをあとにした。
図書館で目当ての本を借りたあと、平日の平安神宮界隈を散歩しようと思ったのだが、予想外に人が多い。なんなんだと思ったら蚤の市をやっているのだった。
宝やごみくたみたいなものがたくさん並んでいておもしろい。きっといつもより人は少ないのだろうけど、ひらけた場所でやっているためかみんなあまり距離を気にせずに掘り出し物を探している。弦を失ってのっぺらぼうみたいなバイオリンとか、貝のイヤリングかと思ったらヨーロッパ製の差し歯のセットとか、肌に押し付けたらそのまま破傷風になって死にそうな錆びた焼きごてなんかは生活の役は立たないけれど、家にあったら愉快だろう。
最近朝食をグラノーラに切り替えたのだが、手頃なスプーンがないので金属のレンゲを使っていて、簡便ではあるものの食べづらいのを思い出した。ちょうどいい大きさのアンティークのスプーンがあればいいなと思って探してみる。これだと確信できるスプーンはなかなか見つからない。どれも装飾が地味すぎたり、派手すぎたり、小さすぎたり大きすぎたり、あるいはくぼみが深すぎたり、浅すぎたり、新しすぎたり古すぎたりする。わがままを言うようだが、毎朝使うものだから妥協はしたくない。口に含んだ感触を想像しながら探したせいで、想像上の口の中がホコリと錆でいっぱいになった。
こういった古道具の店はあるじの趣味が露骨に反映され、なかなかに箱庭療法じみている。店というのは多かれ少なかれ箱庭だが、ここでは日にさらされて間仕切りもないので、余計にあらわな感じがする。
スプーンをあきらめた頃、中央の芝生のあたりで鳥のおもちゃを見つけた。植物の蔓で編んであり、くちばしはごく細い小枝でできている。両脇になぜか大きな車輪がついている。この体の構造では、走れはするが、飛べないだろう。なんてかわいそうなのだろう。かわいそうでかわいい。ほしい。店番をしていた人に聞くと、自分は隣の店の者で、そこの人は今出かけているとのことだった。しばらく他の店を回って戻ってきたら別の客があの鳥の値段をわたしと同じように訊いて断られていて、これは油断していると買い逃してしまうと思ってあわてた。それで残りの時間は鳥を手の中に握ってあるじの帰りを待っていた。小鳥を飼っている人がやるように親指の腹で頭をなでると妙にしっくり来て、これはやっぱりわたしの鳥に違いないと悦に入った。
戻ってきたあるじに会計をしてもらった。昔長野県でつくられていたもので、最近復刻してまた売られるようになったが、これは昭和の頃の古いものだそうだ。新聞紙にくるんでもらったのを大事にリュックにしまった。
あとで調べたらあけびの蔓で作られる信州の郷土玩具で、鳩車というらしい。昭和三十六年の長野産業文化博覧会で当時の皇太子妃の目にとまって献上され、遊ぶ姿がニュースで流れたことで一時は爆発的な人気を得たのだという。これは、わたしには、もの悲しい話に思える。