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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

マインドフルネスが嫌いです

これはマインドフルネスへの批判ではなく、「マインドフルネス瞑想に強烈な拒否感を持ってしまう私は、一体どのように世界や<わたし>を把握しているのか」を考えるために書いた日記です。

 

今回もだめだった。先日とある集まりにメンタルヘルスの専門家が来ていて、その人の作った音声データにしたがってその場にいる全員でマインドフルネス瞑想を実践する時間がもうけられたが、5分と保たなかった。
これまでにも何度が試してみたことがあるけれども、私にとってマインドフルネス瞑想はひどく苦痛である。瞑想は自然に湧き上がる思いや雑念を受け流し、ただ呼吸と体の感覚に集中することを要請する。とても耐えられない。呼吸に集中しようとしてもあまりの退屈さに呼吸がため息に変わり、続いて全身の関節をパキポキと鳴らすよくない癖があらわれ、とりとめのない思考が手綱の外れた馬のように暴れ回った挙げ句、思考を縛っている大本の原因たるマインドフルネスへの悪口で頭がいっぱいになってしまう。胸の中が悪罵に満たされているのは嫌だから、とうとうエイと瞑想をやめることになる。まだ決められた時間の半分も過ぎていないというのに。
そっと目を開けると、私以外の十数人はみんな目を閉じて静止している。一瞬屍のように見えてぞっとする。学校に通っていた頃はこういう瞬間が毎日のようにあったな、と思う。思う思う思う。記憶の再生が止まらない。頭の中にラジオがあって誰かが話し続けている。話す話す話す。そのラジオは決して電源を切ることができない。スイッチが壊れているのだ。もしくは、スイッチは隠されていて、私はその場所を知らない。苦痛だ。今すぐ椅子を蹴っ飛ばしてどこかへ行ってしまいたい。長い長い苦しみに耐えていると、「次の言葉を心の中で唱えてください」と吹き込まれた声が言う。よかった。瞑想のフェーズが変わったのだ。「私のすべてを許します」。ああああ、苦しい苦しい苦しい。助けてください。「大切な人へ。存在してくれてありがとう」。やめてください。叫びだしそうだ。私には悪魔がとりついているのかもしれない。そうでなければ、こんな苦しみに説明がつかない。私はとうとうこっそりとスマホを取り出し、Twitterを開いた。他人のどうでもいいような投稿をひたすらにスクロールする。嘘みたいに心が安らぐ。マインドフルネス瞑想が終わると、他の参加者たちはすっきりしたような表情をしていた。


その後数日、どうしてあんなに苦痛だったのだろうと考えた。マインドフルネス瞑想はもう何年も前から流行しているし、たくさんの人が実践している。だから効果のほどは一旦おくにしても、何かしら満足感や達成感を得られる仕組みがあるのだろう。そういう人たちと、苦痛しか感じない自分の違いはなんだろうか。ひとつ思いつくのは、<わたし>というものの把握の仕方が両者で違っているのではないか、ということだ。マインドフルネス瞑想では過去の記憶や未来への不安にとらわれることなく、「今ここ」の一点に集中することを目指す。そこでイメージされている<わたし>とはおそらく、何重ものベールに包まれた小さな粒のようなものだ。普段はさまざまな刺激と考えに包まれて姿が見えなくなっている、純粋で確固とした芯のようなもの。ベールを脱ぎ捨てて素裸の私を今一度見つめ直しましょう、といった姿勢がマインドフルネス瞑想の根幹だと思われる。一方で私の感じている<わたし>は、ひっきりなしにフラッシュバックする過去の記憶と自動生成されるおしゃべりと、目の前にある物、そしてそれらから飛躍して生まれる突拍子もない想像などがごちゃまぜに重なりあった上に、ぼんやりと偶然に結ばれる写像のようなものなのではないか。確固とした<わたし>というものはなく、ダイナミックに変化する状態であるし、活動でもある。だから目を閉じて視覚情報を遮断し、浮かんでくる記憶や考えは無視しろ、と言われると困ってしまう。<わたし>が像を結ばなくなるからだ。それで内側から崩壊するような苦痛を感じる。
そういえば、と別のことにも納得がいった。私の部屋に出るハエトリグモのことだ。私は彼らが大好きで、見た目が可愛いし小バエなどを食べてくれるので殺すこともなく共生しているのだが、デスクに向かって仕事をしている時、白い壁にハエトリグモがいるのを見つけると不思議と心が安定する。ただハエトリグモがかわいくて好きだからだと思っていたが、上記のような私のあり方を考えると、少し違うのかもしれない。ハエトリグモが出たとき、私は<わたし>の一部をそこ、つまりハエトリグモに預けているのではないか。ハエトリグモの目で広大な白い壁を歩き回り、獲物に向かって跳躍し、「ハエの汁うめー」などと感じているととても安らぐのだ。私の<わたし>はぼんやりした幻のようなものだが、目の前のハエトリグモは実在している。ハエトリグモに<わたし>を託すことで、少しだけ輪郭がはっきりする。