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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

ルシア・ベルリン「さあ土曜日だ」を読む

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大学の講義でしゃべってきました

2週間ほど前になるが東海大学文芸創作学科の講義「文学精読」にゲストスピーカーとして参加した。取り上げた作品はルシア・ベルリンの「さあ土曜日だ」(岸本佐知子『掃除婦のための手引き書』所収 / 講談社)。小説家の倉数茂さんが担当されている科目で、各回につきひとつの短編小説を丹念に読むという授業だ。うち3回はゲストスピーカーを招くとのことで、幸運にもそのひとりとして声をかけていただいた。倉数さんとはブンゲイファイトクラブ2の本戦でご一緒したのでそのご縁だと思う。この記事はその覚え書きです。あとめちゃくちゃ長いです。

 

 

オンラインで1回きりとはいえ大学の講義で話すなんて初めてだし、聞けば他2回のゲストは大滝瓶太さんと川口好美さん、おふたりは文芸批評を(も)フィールドにされているが私は違う。ブログやZINEや小説を休み休み書いてきてここ数年小説をがんばっている人だ。だからちょっと迷ったけれども、やっぱりお受けすることにした。仕事という大義名分の元で好きな短編をすみずみまで読み返すのって相当楽しそうだし、大学時代にとっていた同じような授業を今でもひんぱんに思い出しているから。

 

私信:フォークナー研究のS田先生お元気でしょうか、卒業して10年ほど経ちますが今でも週に一度は先生の授業を反芻しています。先生がいなければ『響きと怒り』も『死の床に横たわりて』もあんなに楽しく読めなかったでしょう。短編精読の授業ではレイモンド・カーヴァー「ぼくが電話をかけている場所」、デイヴィッド・レーヴィット「ファミリー・ダンシング」の回が特に印象に残っています。卒業パーティーでかけてくださった「あなたの読みにはクリエイティブなものを感じました」という言葉をお守りみたいに握ってここまでやってきたところがあります。いつかまたお会いしたいです。:私信ここまで

 

紹介する作品はお任せします、とのことだったのでルシア・ベルリンの「さあ土曜日だ」を選んだ。理由は大きく分けてふたつ。ひとつは「文学精読」が文芸創作学科の選択科目であり、この短編の舞台がサンフランシスコ郡刑務所の文章創作クラスだったからだ。学科も一種の創作コミュニティではあるだろうから、学生さんに何かしら響くところがあるのではないかと思った。私自身昔からひとりで小説を書こうとしてくじけ続け、最近になってSNSを中心としたコミュニティに助けられている(ブンゲイファイトクラブ、朗読ツイキャス「犬と街灯とラジオ」)。自分がそういうタイプであること、もっと早く気づけばよかったなあと思う(思うほど一匹狼じゃなかった)。

 

ふたつめはさらに個人的な理由で、ここ数年小説をがんばる最初のきっかけになったのが『掃除婦のための手引き書』の読書会だったから。大阪のtoi booksで開かれた読書会で主催の大前粟生さんの作品に触れて、この人と戦えるチャンスがあるんならとブンゲイファイトクラブに応募したのだった。候補はいくらでもあったけれど、こうしてほぼ必然的に「さあ土曜日だ」を読むと決めた。

 

ルシア・ベルリンの生涯と依存症

講義の前日に学生さんの感想を送っていただいた。主人公が犯罪常習者であることや、更生プログラムの一環としての文章創作クラスが舞台であることを社会学的な視点で読み解いた人が多く、これはちょっと意外な反応だった。2歳から100歳超まで、宇宙ステーションでも獄中でも書けるのが詩や小説だと思っていたのだけど、主人公たちと距離を感じた人が多かったようだ。会話の端々に登場する耳慣れない作家の名前やテレビ番組、背景に織り込まれた人種差別問題にちょっとまごついたような気配もなんとなく感じられた。考えてみれば2000年前後に生まれた日本の大学生と、依存症者で何度も罪を犯して刑務所に収監されている推定1960年代生まれのアメリカの囚人ではずいぶん違うかもしれない。もちろん創作者としての彼らに焦点を当てた人もいた。

 

『掃除婦のための手引き書』を読んだ人はご存知かと思うが「さあ土曜日だ」はルシア・ベルリンの典型的な一作とは言えない。あえてこの短編を選んだ私にも不親切な部分があったと思う。彼女の作品はほとんど実人生から材が取られていて、視点となる人物の性別や職業、居住地は彼女自身に重なるところが大きい。彼女はある時は孤独な少女であり、ある時はハウスキーパーや看護師であり、4人の息子を育てるシングルマザーであり、アルコール依存症者でもあった。

 

一方で「さあ土曜日だ」では不法侵入と強盗で逮捕された32歳の白人男性チャズの視点で語られている。罪を犯したことへの反省や後悔はそれほど描写されず、刑務所で友人たちとの再会を喜び、活発に会話をし、読書や創作に打ち込んでいる。ルシア・ベルリンに重なる人物として登場するのは文章創作クラスのベヴィンズ先生だ。彼女は実際90年代にサンフランシスコ郡刑務所で文章を教えていた。『掃除婦のための手引き書』を頭から読んでいって、小説ごしにルシア・ベルリンの人となりに触れた状態で「さあ土曜日だ」に臨むのと、俗語と固有名詞が飛び交うサンフランシスコ郡刑務所にいきなり放り込まれるのではかなり読み味が違うかもしれず、そこは反省点だった。(とは言え私は邦訳された作品しか読んでいないので、他にこのような作品がないのか本当には知らない)

 

そこでギャップを埋めるために、講義の冒頭ではルシア・ベルリンの生涯や、独特の読み味についてくわしく紹介することにした。波乱万丈な前半生、アルコール依存症と闘っていたこと、しかし作品は決して湿っぽくはなく、それこそが魅力であること。

 

依存症一般についても自分が理解している範疇で話した。サンフランシスコ郡刑務所の受刑者たちは「クラックがらみのガキばかり」と説明されている。クラック・コカインだ。登場人物たちを犯罪者と依存症者、どちらの入り口から眺めるかで読み手が感じる距離は大きく違ってくる。悪人だから薬物を使用して大酒を飲むというわけではないし、悪人だから犯罪を犯すというわけではない(さすがにこれは単純化がすぎるけど)。何らかの困難を生き延びる代償として依存症を抱え、二次的な障害として仕事や人間関係や自尊感情を損ない、結果として法律を破らざるを得ない状況に身を置いてしまう、と理解する方がこの作品から受け取れるものは多いと思う。深刻な依存症でなくても嗜好品なり娯楽なりSNSなりへの依存は多くの人にあるはずで、もう少し登場人物たちを身近に感じてもらえるといいなあと思った。


「さあ土曜日だ」鑑賞

こうして下地をつくった上で鑑賞に移った。トピックは①語りと構成②比喩の楽しさ③書くことについて④時間と向き合う の4つ。

 

①語りと構成

①語りと構成では、「さあ土曜日だ」がルシア・ベルリンの作品としては珍しく彼女とは重ならない人物(おれ / チャズ)の一人称体で語られることに注目した(だから、それは他の作品を読んでないとわかりにくいんだってば……というツッコミはさておき)。

 

どうして彼を視点に選んだのだろう。上で述べたように、ルシア・ベルリンを思わせる人物はベヴィンズ先生として登場する。「刑務所の文章創作クラスを教えている私と、癖の強い生徒たち」という構図はそれなりに魅力的だ。だけどそのようには書かれなかった。

 

構成の面では、主人公チャズがサンフランシスコ郡刑務所に入所する場面から物語がはじまって、最後にこのテキスト全体がチャズの記したものだと明かされて終わる。「今これを書きながら気がついた。」からはじまる3行で、読者はそこににじむ切実さとCDの死に触れてハッとする。その予兆は「最後の課題」のくだりですでに示されているが、初読でこのラストを読めた人はそう多くないんじゃないだろうか。うまいなあ……うまいんだよなあ……好きだなあ……。こうした仕掛けが利いているのも「さあ土曜日だ」と他の作品との大きな違いだ。

 

「なぜ主体がベヴィンズ先生ではなくチャズなのか」とさっき書いた。ベヴィンズ先生視点でこの仕掛けが可能かと言うと、できなくはないけれどこれほどの効果は発揮しないように思う。CDにもっと近しい人物、フラットな関係の人物でなければ、このテキストが書かれた事実は説得力を失う。

 

ベヴィンズ先生が刑務所内のコミュニティにとって来訪者であり異質な存在である点も重要だ。アルコール依存症から立ち直った過去はあるようだが、フェラガモのブーツを履き、ハイブランドの香水を週替わりでつけてくる。終盤、CDの様子を見に行ったベヴィンズ先生が青ざめた顔で「部屋はひどいありさまだった」と言い、チャズがあっけらかんとして「でも今はどこも天国のはずだよ」と返す場面は印象深い。同じものを見てもふたりの抱く思いはまるで違っている。

 

これはもちろん推測だけれど、技術的に可能だったとしても、ベヴィンズ先生の視点で書くことをルシア・ベルリンは忌避したように思う。部外者と受刑者、先生と生徒、という関係の中でCDの死を描くのはフェアさにおいて疑念が拭えないからだ。ギャングの青年の一生をいっとき覗き見したに過ぎないのではないかと。奉仕活動に熱中するドーソン先生や、貧民街の人々を露悪的と言っていいほど突き放して描写した「いいと悪い」などと比較してもそう感じる。十代の少女の視点でなら書けても六十歳前後の女性視点では書けなかったのではないか、だからこそチャズという男性の視点を通したのではないかと思う。


②比喩の楽しさ

ルシア・ベルリンは比喩が楽しい。「ターはバークレーのゴミ捨て場に似ていた」(「掃除婦のための手引き書」)、「おそろしい化け物、黄色と黒のリプトンのタグをパレードの飾りみたいにぶらさげた生きたティーポット」(「ドクターH.A.モイニハン」)などなど。「さあ土曜日だ」でも比喩は健在だが、冒頭の刑務所周辺の描写でふんだんに使われたあとは一気に地の文から比喩が減る。馴染みのない刑務所内の世界へ読者を引き入れたら、比喩はお役御免といった感じだ。

 

まるで中国の絵みたいだった。タイヤとワイパーの音。足の鎖が東洋の楽器みたいな音で鳴り、オレンジのつなぎの囚人服がチベット僧みたいにそろって左右に揺れた。(pp.236)

 

刑務所のまわりはフランスのお城の庭園みたいだ。(pp.237)

 

人の姿がなく、ほかに家もないから、霧ごしに光の筋がさしこむ太古の草原に突然迷いこんだみたいな気分になる。(pp.237) 

 

親友CDの描写でも比喩は使われている。

 

古いセピア色の写真かミルクを混ぜたブラックティーみたいな、なんとも言えない不思議な肌の色をしていた。(pp.239) 

 

奴はマサイの戦士みたいに見えるときもあれば、ブッダかマヤの神かと思うときもあった。(pp.239)

 

ちょっと気になるのは、外国の風景や事物がよく比喩に取り入れられていることだ。とりわけアジア圏の地域に言及したものが目立つ。そして刑務所という舞台と親友CD(「母親はチャイニーズ、父親は黒人」と説明されている)が、比喩の上で注意深く結び付けられているように私には思える。

 

後半では比喩の頻度が落ちるが、かわりに生徒たちの詩や小説が次々に紹介される。たとえば、自分が切り株だとしたらどんな切り株かを説明するという課題でチャズは以下のように話す。

 

おれの切り株は焼け野原に一本だけ残った切り株だった。真っ黒に枯れて、風が吹くと炭のかけらがぽろぽろ崩れ落ちる。(pp.247)

 

これなどは火の玉ストレートの比喩で、それもあって地の文からは比喩が減るのかもしれない。

 

③書くことについて

当然ながら「さあ土曜日だ」は書くことについての示唆が豊富に登場する。なぜ書くのか、書くことで何が達成されるのか、どうすればうまく書けるのか。そういう部分を名言風に切り取るのははっきり言って趣味が悪いけれど、ちょっとやってみよう。

 

たとえば、文章を書くのが好きなチャズに顔見知りの保安官代理マックがレポート用紙とペンを支給する場面。

 

「お前も今度こそ、”第四のステップ”[断酒会の提唱する、断酒にいたる十二のステップの一つ]にいくかもしれんな」つまり自分のあやまちをすっかり認めるってことだ。(pp.238)

 

 

ここではアルコール依存症からの回復過程が言及されている。AAワールドサービス社(AAはAlcoholics Anonymousの略)のページによれば、第4ステップは「恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、その表を作った」。自分自身の棚卸しというのは、文章に限らず芸術表現全般に言えることだと思う。

 

次は、生徒のひとりマーカスが実体験風の小説でベヴィンズ先生に挑みかかる場面。

 

 「こんなのはクソだ。どこかで読んだクソを書いただけだよ。おれは親父の顔も知らねえ。あんたがおれたちから聞きたがってるような話を書いたまでさ。どうせ親切ヅラして、おかわいそうな社会の犠牲者たちに心を開かせてあげましょう、みてえなつもりで来たんだろ」
 「あたしはあんたの内面なんか屁とも思っちゃいない。あたしは文章の書き方を教えに来てんの。あのね、嘘をついたつもりが真実を語っていた、ということもあるのよ。この話しはよくできてる。どんなふうに書かれたんであれ、ここには真実がこもってる」(pp.244)

 

い、言われてえ~! 「どんなふうに書かれたんであれ、ここには真実がこもってる」って言われてえ~~! それはさておき、小説を書いていて自分のどうしようもない部分が見えてくることは実際ある。直視したくないがために、物語の中で都合よく嘘をついてごまかしてしまうことも同じくらいある。このあとに続く「犠牲者なんてあたしは大嫌い」「もちろんあたしがあんたの犠牲者になるつもりもない」という台詞は、ルシア・ベルリン(と思しき人物)の生涯を考えると相当迫力がある。

 

作中で書くことについて言及される場面はまだまだある。「犯罪者の頭と詩人の頭は紙一重だ」(pp.246)、「自分が今よりもっとうまくなることだけを考えなさい」(pp.250)、「ただ頭がいいとか才能だけじゃない。魂の気高さなのよ」(pp.250)。

 

しかしもっとも重要なのは、CDが書いた、若いカップルが古道具屋のショーウィンドウをのぞきこむ短編をみんなで評する場面にあるこの部分だろう。

 

 「うん」とウィリーが言った。「でも、この話の中で奴は女の子を接ぎ木しなおしたんだ」
 「なんだって、ニガ?」
 「シェイクスピアの詩にあったんだよ、兄弟(ブラッド)。アートってそういうもんだろ。幸せを冷凍保存する。この話を読めば、CDはいつでも幸せな時間を呼びもどせるんだ」 (pp.246)

 

ウィリーはシェイクスピアびいきの生徒だ。ここで引用されているソネットはおそらく第15番。青春の美しさを植物になぞらえながら、この世界の移ろいやすさと儚さを歌っている。該当する部分は最後の2行。

 

And all in war with Time for love of you,
As he takes from you, I engraft you new.

されば私は愛する君ゆえにカをつくして「時」と戦い
「時」が君から奪うとき 新しいいのちを君に接木する。

 翻訳出典:『世界古典文学全集』(41-46)(筑摩書房

 

くり返し読み返すうちに、予想外に強い印象を持ち始めたのがこの場面だった。生徒たちは課題が「痛み」だったことを念頭に、これは痛みの話じゃない、いや痛みを感じた、愛の話だ、愛なわけあるか、と議論をくり広げる。誰もが自分の意見を遠慮なく述べていて活気がある。創作コミュニティの中でもかなりうまくいっている部類と言えるだろう。そんな雰囲気の中でシェイクスピアソネットが引用される。この部分は、書くことの大きな効用のひとつを指摘していると思う。それもあって、トピックの最後に④時間と向き合う を持ってきた。

 

④時間と向き合う

小説は時間芸術だとよく言われる。小説の内外では3つの時間が流れている。ひとつめは書き手が記憶やイメージと向き合い言語化していく時間。ふたつめは小説の中で流れる時間。そして、読む人が小説を読むことで体験する時間。

 

考えてみれば、刑務所ほど時間と向き合わされる場所はない。食事や就寝の時間は決められており、受刑者たちは厳格なスケジュールに沿って行動する。過去に自分が犯した罪に直面することを余儀なくされる。懲役の長さも決まっていて、その日が来ればふたたびシャバに戻らなければならない。短編としてはありえないほどたくさんの人物が登場し、退場していく。それはこの物語の舞台が刑務所だからだ。

 

チャズたちのいる先進的なサンフランシスコ郡刑務所はおそらく刑の軽い者が多いと思われ、刑務所というより学校のような、モラトリアム的な雰囲気がある。そこで開かれている文章創作クラスはひととき受刑者たちに記憶と向き合う時間をもたらすが、このクラスにしても実はいつまで続くかはわからない。なぜなら刑務所の方針は犯罪抑止力に欠けると見なされているからだ。次に建設される刑務所はもう二度と戻ってきたくないと思うような、ずっと厳しい場所になると示されている。

 

チャズの親友CDは弟がギャングに殺された現場に居合わせた記憶に縛り付けられ、その日のことを「さあ土曜日だ」という短編として書く。文集が仕上がるパーティにもCDはふさぎ込んで出てこず、2日後に出所していく。そしてCDは、チャズが記した通りの最後を迎える。

 

後半になるにつれ、看守は同じような台詞をくり返す。「さあみんな帰る時間だ」(pp.252)、「さあみんな帰る時間だ」(pp.253)、「みんな、あと5分だ!」(pp.254)。その声は「さあ土曜日だ」のタイトルを想起させるとともに、時の流れの前に人間は無力であることを告げている(ただし、原文では”Time to go, gentlemen.” , ”Five minuets, gentlemen!” であるので、意図したものか否か翻訳を経てタイトルに近接したことになる)

 

この短編で謎なのは、作中に土曜日が一度も登場しないことだ。平凡な書き手だったら何かこじつけたくなると思う。CDの弟が殺されたのが土曜日だった、とか、文章創作クラスは毎週土曜日に行われた、とか、CDの出所日が土曜日だったとか。たとえばアメリカの刑務所では出所日が土曜日に設定されているなど、もしかしたら私の知らない事情があるのかもしれない。しかしそうでないのだとしたら、「さあ土曜日だ(Here It Is Saturday)」の土曜日とは一体なんなのか。もしかしたら土曜日にさほどの意味はなく、「さあ」の方が重要なのではないか? 時間との対峙を促す「さあ」という言葉の方が。

 

ルシア・ベルリンは底が知れない。彼女がどうして生涯を通して76編の短編を残したのか、どうも掴めない。それは翻訳者の岸本さんも言っていることだし、私も同意見だ。けれども「さあ土曜日だ」の中でどうしてチャズが最後の課題にもう一度向き合ったのかはわかるような気がする。それは、そのままでは忘却に消えていく時に抗うためにであり、愛する人々や嫌いな人々、痛みや苦しみを自分だけの手触りで捉えるためであり、幸福を冷凍保存するためであり、「されば私は愛する君ゆえにカをつくして「時」と戦い/「時」が君から奪うとき 新しいいのちを君に接木する」ためではないか。そのようなことを(早口で)話して発表を終えた。

 

倉数さんからのコメント

発表中には倉数茂さんにも随時コメントをいただいた。依存症への理解に関する会話が面白かった。倉数さん自身、『あがない』(河出書房新社)抗不安薬依存を扱っている。ダルクの講演会などを取材し、依存症へ至る過程や自助グループについて学んだ上で書かれたそうだ。不勉強ながら未読だったので、講義のあとに購入して読んだ。するすると吸い込まれるように日常生活が壊れていく様や、断薬後もふとした瞬間侵入してくる抗不安薬のイメージはとても生々しく、主人公が出会う青年・成島は依存症の過去そのもののように背後に張りついて離れない。読み終わったあとにタイトルがずしんと来る終わり方だった。

 

参考になりそうな作品もまだすべてはチェックできていないが、少しずつ見ていくつもりだ。私が挙げたのはアン・ウォームズリー『プリズン・ブック・クラブ  コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』(紀伊國屋書店)。倉数さんに教えていただいたのはマーガレット・アトウッド『獄中シェイクスピア劇団』(集英社)と、対話プログラムを取り入れた島根県の刑務所を取材したドキュメンタリー『プリズン・サークル』。『獄中シェイクスピア劇団』は買ったけれどまだ未読。『プリズン・サークル』は機会があれば必ず観たい。

 

授業が終わると疲れが襲ってきて、同居人に起こされるまで4時間くらい眠ってしまった。ひとつの物語に首までどっぷり浸かるのってすごく疲れる。それ以上に私は切り替えが下手なので、物語に浸かっている間は他の仕事とか食事とか睡眠が全部霧の向こうに行ってしまって生活がおろそかになる。なにも手につかなくなる。恋愛や「推し」ができる時にもよく似ていて、前にこういう状態になったのは正井さんの「よーほるの」を読んだ時じゃないだろうか。その後数日も放心状態だった。だけどこういう読書以外に得られない充足感があるのも本当で、おかげで「さあ土曜日だ」は私にしっかりと刻みつけられた。年に数回はこういうことがあるといいなと思う。

 

すぐにブログを書こうと思っていたのに、気づいたら2週間も経ってしまった。時が経つのは早い。でもとにかく更新できてよかった。なんと言っても今日は土曜日ですので。

 

おまけ:レイモンド・チャンドラーのタイトルリスト

 

授業では時間がなくてあまり紹介できなかったけれど、レイモンド・チャンドラーのタイトルリストも用意していた。作中でベヴィンズ先生が「レイモンド・チャンドラーの創作ノートに書いてあったタイトルのリストを配った」あと、次のように言うくだりがある。

 

「オーケイ。これで何をやってほしいかというと、長さが二、三ページで、最後に死体が出てくる話を書いてほしいの。ただし死体は直接出さない。死体が出ることを言ってもだめ。話の最後に、このあと死体が出ることが読者にわかるようにする。了解?」

 

CDはその中から「さあ土曜日だ」を選び、弟が殺された日のことを書く。それがこの小説のタイトルにもなっている。


この創作ノートは実在している。文章創作クラスの生徒には以下のようなリストが配られたはずだ。こうして全体を見てみると、チャズやCDが何を選んだのか、何を選ばなかったのかがわかって面白い。邦訳は『レイモンド・チャンドラー読本』(早川書房)に掲載された稲葉明雄の訳を引用した。自分で最後の課題に応える作品を書いてみるのも「さあ土曜日だ」を能動的に味わう方法のひとつとして良いのではないかと思う。

 

耳のちぎれた男 The Man with the Shredded Ear
あらゆる拳銃には弾丸がこめてある All Guns Are Loaded
デザート選び Choice of Dessert
破滅からの帰還 Return from Ruin
今日は土曜日だ Here It Is Saturday
花嫁によろしく My Best to the Bride
雨を愛した男 The Man Who Loved the Rain
死体は自分でやってきた The Corpse Came in Person
法律は金で買えるところにある Law Is Where You Buy It
ボーイは夜明けに起きる The Porter Rose at Dawn
おれたちはみんなアルが好きだった We All Liked Al
雨もよいの縁日 Fair With Some Rain
彼は一度しか殺されなかった They Only Murdered Him Once
微笑には遅すぎる Too Late for Smiling
派手な格子縞の服の男の日記 The Diary of a Loud Check Suit
最後に見かけたときには死んでいた Deceased When Last Seen
早く、死体を隠せ Quick, Hide the Body
おやすみ、そして、さようなら Goodnight and Goodbye
かたづける The Cool-Off
ワトソン伯父さん、考えたがる Uncle Watson Wants to Think
客間の牧師 The Parson in the Parlor
悲鳴をやめろ――おれだ Stop Screaming – It’s Me
三幕目なし No Third Act
二十分間の眠り Twenty Minutes’ Sleep
奴らはやはり正直にやってくる They Still Come Honest
二人の嘘つきの間 Between Two Liars
トラックを持つ貴婦人 The Lady with the Truck
殴られたブロンド The Black-Eyed Blonde
雷虫 Thunder Bug
誰もがさよならを早く言いすぎる Everyone Says Good-bye Too Soon

 

私は先日「雷虫(Thunder Bug)」で短い話を書き、毎週水曜日に配信している朗読ツイキャス「犬と街灯とラジオ」で朗読した。一応ベヴィンズ先生の課題に応えられるように書いたつもりだけど、どうでしょうか。テキストをnoteにもアップしたので良かったら読んでもらえると嬉しいです。

 

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<お知らせ>
『kaze no tanbun 夕暮れの草の冠』(柏書房 / 西崎憲 編)に寄稿しています。自分の記憶をシャッフルして「ペリカン」という小説を書きました。本棚にあると魂が最強になるような本なので、ぜひ手にとってみてください。