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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

『霧の街のクロノトープ』を観に行った

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昨日は自転車に乗って『霧の街のクロノトープ』を観に行った。東九条の北河原住宅跡地で展示される野外のインスタレーションだ。中谷芙二子×高谷史郎の作品。くわしい背景をよく知らずにふらっと出かけた。

いい天気だった。冷気が指先を刺してくるけれど、自転車を漕いでいれば寒くない。前日の朝雪が積もったのが嘘みたいに晴れていた。会場は古い住宅と個人の小売店とごく浅い用水路のそばにあった。だだっ広くて、砂利の多い地面に色の抜けた枯れ草がぼそぼそ生えている。言ってしまえばただの空き地だが、こんなに空き地らしい空き地に足を踏み入れる機会はめったにない。周囲にめぐらされた緑のフェンスに白いビニールがかけられている。空き地の真ん中には鉄パイプで組まれた巨大な直方体があって、冬の日光を照り返している様子は休日の工事現場のようにしか見えず、場所を間違えたのかと思った。けれど直方体の前に並んだ数脚のパイプ椅子に数人が腰掛けてそれを眺めていたから、やっぱりこの場所なのだった。

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私達はプログラムの合間に来てしまったらしい。一時間に三度、四分間の霧の彫刻があらわれると入口近くに置かれた紙に書いてあった。手持ち無沙汰に歩き回って片隅の機械を眺めた。直方体とケーブルでつながっていて、おそらく霧を発生させる装置だろうけど、もともとなんのためにつくられた機械なんだろう? 装置のそばには容量二.〇トンの巨大ポリタンクがふたつ置いてあった。こんなに大きな灯油タンクがあったらもうこの冬はガソリンスタンドまで買いに行かなくて済むのにな。

直方体に取り付けられた黒いバーからしゅわっと音がした。白い霧が吹き出している。さえぎるもののない空き地には勝手気ままに風が吹いていて、生まれたての霧を横殴りに散らした。そのせいで鉄の骨組みが余計にあらわに見え、大丈夫なのかしらと心配になった途端、霧が直方体の内側にぐるぐると溜まり始めた。霧の角度や量は細かくコントロールされているらしい。そばで眺めていた人が直方体の中に入っていって、数人があとに続いた。私達も霧に埋もれに行った。顔やコートが霧の粒を受けてわずかに濡れる。霧が水なのだということをどういうわけかその時まで忘れていて、ちょっとうろたえた。中谷芙二子中谷宇吉郎の次女だ。雪の結晶の研究で知られる物理学者の娘として生まれ、霧の彫刻家になった。数歩先にいる人の姿が影法師になった。私も影法師になっているはずだ。かと思うとすぐに視界が晴れ、また別のところに霧が流れていた。直方体から出て全景を眺めると、目の中がきらきら光っていて、何かと思ったらまつ毛にくっついた細かな水の粒が光を散乱させているのだった。同居人の眼鏡のレンズをのぞきこむとそこにも極小の水滴がついていた。私達は白い雲を背景に、霧が空に向かって逆巻き消えていくのを眺めた。太陽の光や風の通り道が霧によって形を持っていた。装置は始まった時と同じように唐突に静かになった。霧が晴れた足元に鮮やかな椿の花が落ちていて、なぜこんなところに椿があるのだろうと不思議に思った。

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 次のプログラムは十六分後。どうせならもう一度見ようということになり、時間まであたりを散歩した。会場にいるときも聴こえてきていた電子音のウィーウィシュアメリクリスマスを頼りに歩いていくと韓国食品を多く置いている小さなスーパーがあった。

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近くにはキムチの専門店もあるようだ。そばで看板を見かけた。スーパーにはビーフの粉末スープやら乾燥ナツメやらが売られていておもしろく、同居人はあわび粥を、私は辛ラーメンを買った。店を出て会場に戻る道で植え込みの椿が花をつけていて、さっき落ちていたのはここから来たのだろうかと思った。 

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二度目は中に立ち入らず、少し離れたところから眺めることにした。霧は不定形の塊になってもわもわぼわぼわ姿を変えた。太陽を飲み込み、たわむれるように私達をも飲み込み、これは何かに似ている、水族館のイルカショーの、最前列でしぶきを浴びた嬉しさだと思った。四分経つと装置は止まり、最後の霧はまだ霧散せず残っていた。そこにさあっと風が吹いて、白い塊は直方体の外へ押し流されていき、くねりながら柵を乗り越え、街へ出て行った。その後ろ姿を愉快な気持ちで見送った。霧に前とか後ろがあるのかは知らない。