点取日記 39 浅知恵(ほのおタイプ)
週の前半から体調を崩してしまい、うっすら風邪をひいている。なんだかへんな喉風邪で、病みががりによく感ずる、血の臭いのする息が喉からあがってきて、木曜日にとうとう熱が出た。
そのせいで今週はあまり本を読んだり、ラジオを聴いたりもできなかった(いかにも言い訳がましいが)。
朗読の練習は毎日続けられたけれど、平気だと思っていても5分10分読むと苦しくなってくるので、休み休みやる。
読んだなかでは、『kaze no tanbun 特別ではない一日』の上田岳弘「修羅と」が詩のようであり、演劇のようであり、擬音もあって楽しかった。
今週印象に残った考えごとは、
・ほのおタイプの浅知恵
・twiccaの死
のふたつです。
ほのおタイプの浅知恵
体調が悪いと、妙に工夫した料理をしようとする癖があることに気がついた。
「凝った」ではなく「工夫した」というのがポイントだ。豪華な材料を買って絢爛な料理をつくるわけではない。手近な食材と道具をうまく組み合わせて、要領よく一石二鳥的な料理ができないか、という方向に頭が回りだすのである。そして大体、ろくなことにならない。
今回の現場は冬の間使っているアラジンの灯油ストーブであり、まず標的となったのは食パンと卵とチーズのみなさんだった。
日曜日の朝、起きてすぐに仕事を片付けはじめたので朝食が遅くなり、11時ごろにいつもより豪勢なものが食べたくなった。たんぱく質どっさり乗せみたいなオープンサンド食べたい。わき目もふらず食べたい。
ところで私の家にはオーブントースターがない。いつもは食パンを焼き網に乗せてコンロであぶって片面ずつトーストしている。
そこでひらめいたのが、ストーブの熱を利用する方法だ。アルミホイルに具材と食パンを包んで、ストーブの天板で焼けばオープンサンドっぽいものができるのではないか。
アルミホイルを四角く切って浅い皿の上に置いた。生卵を割り入れ、上にとろけるチーズ、食パンの順に乗せる。
食パンの下からはみ出そうとする黄身に苦労しながらも、なんとかアルミホイルで包み込むことができた。よしよし。
あとはこれを火の点いたストーブの上に置くだけだ。部屋はあたたかくなり、オープンサンドも焼ける。これすなわち省エネなり。
ところができあがったのは、湯気でふにゃふにゃに蒸されたパンに卵とチーズが渾然一体となってこびりついた、なんとも残念なものだった。
そもそも具材の大半がアルミホイルに焼きついていて剥がれない。せめてサラダ油を塗っておけばよかったと悔やんでも手遅れだ。
泣きたいような気持ちになりながら、スプーンで卵とチーズをこそげて食べた。
続いて月曜日に犠牲者となったのは、まる餅である。
お正月に実家でお餅のうまさに目覚めて、先日スーパーで安く叩き売られていた1kgパックのまる餅を買った。小腹が空いた時に都度焼いて食べるとこれがなかなかちょうどいい。
しかし惜しいのは、小さな餅ひとつを焼くためにいちいちコンロを点けなければいけないことだ。餅に必要な熱源は、せいぜいコンロ全周の1/4ほどなのにもかかわらずである。
そこで思いついたのが、ストーブの熱を利用する方法だ。もちろんいくつかの課題もあった。
天板に直に餅を置くのは愚の骨頂。べとついた餅が焦げつくのは目に見えている。コンロの時と同じく焼き網を使うのが妥当として、問題はこの焼き網が焼き網とメッシュ網の二層構造になっている点だ。コンロに乗せると火との距離がちょうどいいように計算されているため、ストーブでは熱源が遠すぎる。幸い、ふたつの網は固定された1辺が関節になって直角に開けるから、天板に焼き網が接するよう、L字型に開いたそれを天板にそっと乗せればよいだろう。部屋はあたたかくなり、餅も焼ける。これすなわち省エネなり。
大間違いの馬鹿野郎である。時をさかのぼってひとつひとつ自分に忠告してやりたい。餅は天板に置くと焼けるのに時間がかかり、さりとて天板の穴の上に置けばすぐに焦げるぞと。うっかり目を離した隙に大きく膨らんで網にへばりつき、その部分は真っ黒な炭になるぞと。熱い餅をひっくり返す際、その炭が天板に散らばって結局汚れるぞと、あと餅は動くぞと。
餅は動く。餅はふくらみを利用して網の上を移動する能力を持っているうえ、ピタゴラスイッチ的にメッシュ網がばちんと閉じて、大きな音にびっくりさせられることもしばしばだ。そしてこのメッシュ網に付いている取っ手が熱いのなんの。
餅はおいしかったのでそこはよかったが、結果的にはコンロで焼くよりも大きな心理的コストを払わされてしまった。
なんか最近こういう話を読んだと思ったら、大前粟生『のけものどもの』の収録されている「脂」という掌編だ。(お正月に惑星と口笛ブックスパスを買いました)
ぜんぜんお金がなくて、ぜんぜん大丈夫だと思えなくて、財布のなけなしの小銭で豚バラブロックを買い、それをワイルドに焼いて食べることで再起動しようとする話なんだけど、読んだ時おののいた。私もほぼ同じ行動をつい2ヶ月ほど前にしたからだ。私の場合は半額のアンガス牛だったけど。安い肉ゆえの脂の悪さとか、かじった瞬間の「そうでもない」感じとか、描写がリアルで本当に最悪(つまり最高)。
落ち込んだ時急に奮発して肉を焼いたり、体調不良に抗うためにストーブで調理をし始める時の自分を分析してみると、まあなんというかはっきり言って、浅知恵にすがりたい状態だなと思う。ほのおタイプの浅知恵だ。たぶん、一種の防衛反応なのだろう。
心や体が弱っているからこそ、なんとかして回復に努めているのではないか。たとえば野生生物なら落ち葉を集めて寝床を暖かくする、とか新鮮な臓物を食べる、といった行動をとるところを、私は人間なので火に頼る。
思えば幼少期から、ものすごく熱くなる読書灯で餅を焼こうとしたり、祖父母の家のこたつで餅を焼こうとしたりと、家具の熱を利用しようとしては失敗を重ねてきた人生だった。大人になって多少の自制心が芽生えたものの、危機を感じると子供の頃と同じ過ちをくり返してしまう。しかし不調な時にひらめく工夫などたかが知れているのである、なぜなら私の頭こそ熱に浮かされているのだから、ああ、半端にうまいこと言ってしまった最悪……自分の文章力が憎い……。
ちなみにこの性質がうまく働く場合もあって、そのあとにストーブで炊いたおでんはとてもおいしかった。具材を追加して今は第二弾を煮込んでいるところだ。すべて白ごはん.comのおかげである。ネットのレシピは現代社会の知恵の実。
twiccaの死
1月15日、長年使ってきたTwitterクライアントのtwiccaが完全に機能を停止した。
早朝は使えていたのだが、午前中にまったく読み込めなくなった。Twitterの公式アプリで確認するとトレンドにtwiccaが浮上していて、そこで自分だけではないことを知った。
あら残念、と流してすぐ次を探すには、私はtwiccaを長く使いすぎたと思う。不便になるなあ、という感想も少し違う。長い時間をかけてtwiccaは少しずつ不便になっていたからだ。
Twitterを始めた10年ほど前は、今ほど公式アプリの機能がよろしくなかった。クライアントがいくつもリリースされて市場を争っていた。いくつか試したなかでtwiccaはもっとも動作が軽く、デザインがよく、文字が見やすいアプリで、以降私のTwitterは常にtwiccaとともにあった。
今軽く計算してみたところ、今年の夏で私は人生の3分の1以上をTwitterとともに過ごしたことになるようだ。おそろしい。
公式アプリより便利なアプリとして登場したtwiccaだったが、2015年に更新を停止し、Twitter側の変更に少しずつ付いていけなくなった。
時期は覚えていないのでばらばらだが、Favの星マークが「いいね」と「♡」というなんだか浮ついたものに変わっても、twiccaはずっと星のままだったし、アイコンが丸型に変わっても、頑なに四角いアイコンを保っていた。それにはどちらかというと好感を覚えた。
しかし140字の文字数制限が緩和されてから、表示に不具合が出るようになったのには困った。ツイートが尻切れトンボになってしまう。このあたりでサブとして公式アプリを入れた記憶がある。スマホにふたつもTwitterのアプリが入っているのはへんだけど、慣れ親しんだtwiccaを手放したくなかった。
画像はいちいちURLをクリックしなければ表示されないし、動画やgifにも対応しておらず、公式アプリを立ち上げなければ見られなかった。ブックマークもモーメントも投票ももちろんなし。スレッド式の投稿もできない。DM機能は途中で使えなくなった。この頃になると、同じTLでも公式アプリの賑やかな印象に比べて、twiccaがしんとした廃墟みたいに思えた。そして今回の完全停止を迎えた。
まだアンイストールする気になれなくて、スマホの画面のいちばんいいところにtwiccaを置きっぱなしにしている。ひょっとしたら万が一復活することもあるかもしれない、という望みが拭えない。
今は公式アプリを使っている。とても見やすくて快適だ。そのことがさみしい。
「あんまりお金を使うな 2点」
私と「脂」へのアンサーじゃん。
【読んだ本】
『kaze no tanbun 特別ではない一日』
【良かったMV】
chelmico『Easy Breezy』MV