点取日記 37 レイシストおじいちゃんも昔は子どもだったってホントかな
さっさと忘れたい不快な出来事が先日あったんだけど、本当に忘れてしまうのもどうなんだと思い直して自分の心の動きを書き留めておくことにした。
このあいだ仕事で地方の幼稚園を訪れた日のことだ。
幼稚園は駅から遠いのでタクシーを使ってよいことになっていた。駅舎の前にいた客待ちのタクシーに乗って行き先を告げると、車は走り出した。
「中秋の名月、見ました?」と、タクシーの運転手さんが話しかけてきた。60代か、ひょっとしたら70代の男性だが、よく日焼けしているのでわからない。
「あ、今年もう来たんでしたっけ。見逃しちゃいました。見たんですか?」と私は返事をした。正直タクシーや美容室では言葉少なく済ませたい方だけど、世間話をふられれば話を合わせることくらいはする。大人なので。
窓の外には田んぼが広がっていて、実った稲穂が一面そよそよ揺れていた。
「月には兎がおるんやーいうてねえ、私らも小さい頃教えられて、いっしょけんめい月見てましたわ」
「ああ、お餅をついてるんでしたっけ」
「あれは日本だけですかねえ? そういう昔の言い伝えも、そこの幼稚園の子らは習うんでしょうねえ」
「そうですねえ」
「ほんで、しつけもちゃんとしてるしね。……日本はねえ、すごいですよ」
あ、なんかいやな予感するな、と思った。な、なんかわからないけどものすごくいやな予感がする。
「それに比べて韓国や中国の連中は……。嘘ばっかりついて」と、運転手さんは語りだした。
「約束は守らず。日本はね、間違ったことはひとっつも! してないですよ」
「それを徴用工や、慰安婦や、金のことばっかりいうて」
「あいつらは子どもも反日なんです。幼稚園の頃から反日教育をしとるんですよ」
私は黙り込んだ。絶句してしまったのもあるし、ここで相槌を打って流すのは簡単だけど、そしたら同意したことになってしまうとも思った。
運転手さんは私がうんともすんとも言わなくなったのに気づいているのかいないのか、ひとくさりぼやいたあと「どう思います?」と聞いてきた。
どう思うもクソもあるか。
なんで金払って乗ってるタクシーで、逃げ場所のない密室で、直接向けられたんではないにしろ純度100パーの憎悪と敵意を浴びなあかんのじゃっ。つーかおっさん、月には兎がどうとか言うとったけどそれもともと中国から入ってきたんちゃうかったか。さっきまで中秋の名月がとか風流な話しとったのに、なんで民族差別の演説聞かされなあかんねん。
突然の話題でパニックになってしまったが、なるべく平静に返そうと試みた。「国同士の問題はあるし、ニュースも流れてますけど、それに私達が飲み込まれて会ったこともない韓国の人たちを嫌い続けてたら、次の世代までそれが残ってしまうと思います」。なんとか同意と取らせずに切り抜けたかったし、おっさんわかってくれ! という気持ちもあった。
「そらそうですよ! 国民同士で憎み合う必要はないです」と運転手さんはうなずいた。
「そやけど日本は戦時中、なんも! ひとつも! 悪いことはやってないんですよ。韓国人は日本に感謝せなあかんのです。ぜーんぶ日本のおかげ。それやのに韓国は…」
あー。と思った。あー、あー、あー、早く降りたい。早く幼稚園に着いてくれ。私には運転手さんと真剣に話すだけの時間がなく、知識がなく、ディスカッション能力がなかった。また確たる動機も、そもそもこの人自身に深く関わりたいと思うほどの興味や愛情もなかった。時間通り目的地に着いて、無事仕事を済ませることの方が大切だった。誠実な会話にはコストがかかるな。と思った。
結局会話を放棄していたら幼稚園に到着した。やっと逃げられる……。領収書をくれる時に運転手さんが「ほんまはもっといろいろ話したかったんですけど」と照れくさそうに笑った。
は?
走り去っていく車を見ながら呆然とした。は??? まじか。私が心底うんざりしてたのも、動揺していたのも、伝わってなかったのか。コミュニケーションって、何???
動揺したのは日頃触れたことがないレベルの差別感情にさらされたからというのが半分。それから世間話の手札として嫌韓・嫌中が選ばれ、自分はその話題に乗ってくれそうな相手と判断された、というのもショックだった。
世間話といえば無難な話題ではなかったか。たとえば天気の話とか。いや天気の話ですら、雨が降って助かる人と困る人がいるんだからなんて聞いたこともある。それなのにさっきのはなんなんだ。いつもあの話を客に振ってるのか。それで韓国や中国にルーツを持つ人を何人傷つけてきたのか。
私の家にはテレビがない。だからあのテレビ番組がひどかった、あの人がこう言ったなどという情報は、間接的には入ってくるが実際に目にすることは少ない。時事問題はインターネットとラジオで補っている。身近な友人にもTwitterでフォローしてる人たちにも、あんな露骨に差別まるだしの人はいない、たぶん。だけどもしかして、信じたくないけどもしかして、今の世間ってやばいのか? 人心、荒廃しすぎでは?
仕事前にテンションが地に落ちたが、気を取り直して幼稚園の門をくぐった。玄関には先生たちが立っていて、園児たちやその親や、さらに上の年代の人たちを迎えていた。聞けば今日は祖父母を幼稚園に招く日なのだという。敬老の日が近いからだろう。
よかったら少し見学していってください、と誘われて教室にお邪魔することにした。教室には20人ほどの園児と、そのお母さんやお父さんたち、おじいちゃんやおばあちゃんたちが集まっていた。
普段子どもと接する機会がないけれど、こうして少し眺めただけでも大人しい子や乱暴な子や、いろんな性格が読み取れておもしろい。ピアノの前に集まらなければいけないのに、女の子がひとりお母さんに抱きついてべそをかいていて、だれかが「赤ちゃんみたーい、赤ちゃん赤ちゃん」とはやした。
すかさず保育士の先生が「そんなん言わないのよ、こんな大勢の人がいて、先生かってどきどきしてるのに」とたしなめる。ブラボーっ、と拍手したくなった。子どもの気持ちに寄り添うスピードが素晴らしい。
先生はピアノを聞かせて子どもたちを落ち着かせたあと、今日おじいちゃんやおばあちゃんも交えて遊ぶゲームのルールについて説明を始めた。けっこう複雑なのに子どもにも大人にもわかりやすい。しかも子どもたちが横やりを入れても自然に受け答えをして、また元の流れに戻っていく。すごい。保育士さんのTEDをやったほうがいいんじゃないか。
それを聞きながら、しゅわーっと何かが成仏していくのを感じた。なんだろうと思ったら、さきほどのタクシーでささくれだった気持ちだった。そうだよ、会話って、コミュニケーションってこういうものだよ。なんだか今日という日の天秤が釣り合ったような気持ちになり、心の中であのクソジジイと吐き捨てて、もう忘れようと決めた。
用事を終え、園内を歩いていたらさっきの教室の前を通りがかった。そろそろ終盤にさしかかっているようだ。ついでにもう少し癒やしをもらおうか、と足を止めた。園児用の低い椅子に腰かけたおじいちゃんやおばあちゃんたちと向かい合うように、園児たちが横二列に並んで立っていた。どうやらこれから歌を披露するらしい。
先生のピアノが鳴り始めた。
おじいちゃんも 昔は
子どもだったってホントかな?
いたずら ばっかりで
しかられたってホントかな?
だったら ぼくと おんなじだ
いたずらこぞうの おじいちゃん
おじいちゃんもおばあちゃんも(詞:新沢としひこ/曲新沢としひこ)/Hoick楽曲検索~童謡・こどものうたを検索!~
子どもたちは声をそろえて、というよりも声をそろえようと一生懸命に歌っていた。怒鳴っているような歌い方の子や小さな声の子がいた。おじいちゃんおばあちゃんたちといえばもう、孫の姿にメロメロだった。そりゃそうだろう。
歌は二番に入り、「おばあちゃんも 昔は…」と続いていたけれど、私はなんともいえない気持ちで胸が重苦しくなっていた。明るく平和な教室で私だけその場の空気にそぐわなかった。さっき記憶から消去した「クソジジイ」が舞い戻ってきていた。
あの人も昔は子どもだった。ほんとかな。ちょっと信じられない。真っ黒に日焼けしてしわしわでだみ声で。だけど小さい頃、月を見て兎を探したのだと言っていた。
無垢な子どもだったのにとは言わない。子どもが無垢なだけでないことは、かつて子どもだった私自身が知っている。子どもだってだますし、そねむし、変わり者やはみだし者をいじめもする。
それでもひとりの小さな子どもが60年か70年を生きてきて、至った境地がある民族をまるごと憎んだうえに客との会話に使うことなのだとしたら、それってあんまり、それってやっぱり、わびしすぎないか。あの人はたぶん一生その場所にいるし、月に兎はいない。そう思うとやりきれなかった。
帰りはタクシーに乗る気分になれなくて、意地で九月の炎天下を駅まで20分以上歩いた。帰ったらとてもくたびれて寝てしまい、起きると下唇に口内炎ができているのに気がついた。ほかの原因に心当たりがないからぜったいストレスだ。畜生、ゆるさねえからな。
「キャッチボールの相手をしてやろう 7点」
よくできすぎた偶然は生きていると時々起こるし、注意していればそれをうまくキャッチできる。この日のこの歌もそうだ。
でもしばらくキャッチボールはいいかな…。