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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

黙って聴け

今日は元々休日にするつもりだったが、予想外の作業が入ってきたので週後半に向けて仕事をまとめて片付ける日にすべきだと判断したが、「無」って感じになってしまい結局最初の予定通りの日になる、というなんだかねじれた休日だった。

金土日と三日連続で人に会う用事を入れて、どれも楽しかったけれど本当に久々だったせいか今日はずっとぼへーっとしていた。天気もぱっとしなかったし。

 

日曜は友人と「細野観光」の展示を見たあと『SAYONARA AMERICA』のラスト上映を観に行った。全体にすごくよかったんだけど、観ているうちに時代の流れのことをいろいろ考えてしまって音楽自体に没頭できなかった。映画はコロナ禍前のニューヨークでやったライブをまとめたものだ。細野晴臣はそこで、自身の源流とも言える一九三〇年代以降のアメリカ音楽を次々カバーし、その影響下にある自身の楽曲を演奏したのだった。細野晴臣の音楽的な歩みを考えれば単純すぎる捉え方だが、図としては敗戦国で一九四七年に生まれて、すごい勢いで流れ込んできた戦勝国の文化と音楽を浴びて育ったおじいちゃんがその国の人々(おおむね年下)の前で”古き良きアメリカ”の音楽を演奏しているわけで、「どういう気持ちで聴いてるんやろう……」とハラハラして会場の様子が気になってしまうのだ。細野晴臣が「音楽と一緒に資本主義も入ってきたけれど……」と語ると会場から"Sorry!"と返って来る場面があったりして、そういう機微は興味深かった。が、やっぱり「いや~細野晴臣って本当にいいですね」で片付けられるライブではないな。リンクを見失ってしまったけど「お礼参り」と表現してる感想があってなるほどと思った。エンドロールでは「さよならアメリカさよならニッポン」が流れるのだけれど、選ぶと選ばざるとにかかわらず自分を構築した源流から簡単にさよならなどできないからこそその後の音楽的彷徨があったのではないかと思う。「“Sayonara”, The Japanese Farewell Song」がセットリストにないことも、なんというか込められている「さよなら」の質が違うからではないか……などと考えてしまう。あああ、好きではあるけど詳しくない話題について述べてしまった。長生きしてください。