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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

わしらの言葉

関西弁でやってみよう

今日はちょっと試しに自分が普段しゃべってる言葉で書いてみよ思う。そうはいうてもどうチューニングするかいうのはむつかしいとこで、とことん口語的に、家族と喋るみたいにやることもできるし、人前で演説する時用のかっちりめの関西弁もありなわけやから、そこは探り探りやけども。

なんでそんなことするかいうと、BFC3の準決勝作品の左沢森さんの「ハーバード」の一首について、ジャッジ・鯨井久志さんが評でけっこうきつめに突っ込んでいて、それに左沢さんがジャッジのジャッジでアンサーしていて、その一連の流れが私にはものすごい面白くて、面白いというか、うわあ痛いとこ突かれたなあ、と思った。私が。ファイトには直接関係ない一観客の私が。ちゅうのはこれこの通り、私が関西生まれの関西弁話者やからやし、かつ小説書いてて、その中で語り手を関西弁話者にすることがようあるから。いうのと、最初はTwitterハッシュタグつけて呟こかなーと思ったけど、これきっかけで自省しだした色々のことがあまりにも膨大すぎて、広大すぎて、それは「ハーバード」いう連作の全体をあまりにも置き去りにしてるし、でも書き留めてはおきたい、書きながらダラダラ考えたいので、ブログでやることにした。はじめに言うとくと明快な結論のようなものは、ないです。

 

※おことわり※

左沢さんと鯨井さんの一連の応答が自分にとってあまりにおもしろく、脳が発火したため記事を書くのに3日もかかってしまった。その上明快な論理展開がなくしょっちゅう脱線する代物が完成してしまった。これが余計なチャチャ入れであることを蜂本はよく承知しております。途中興奮してお二人に話しかけるような口調になっていますが返答を期待したものではなく、無視していただいても一向にかまいません。

 

左沢森「ハーバード」が読めるのはBFC3準決勝です。

準決勝のジャッジ評はここで読めます。

ファイターがジャッジのジャッジをしているのはここです。

どれもおもろいから、読んでないんやったらこんなくだくだしい日記なんか読んでんとそっち行ったらええと思います。

 

目次

 

左沢森「ハーバード」の感想

まず左沢森「ハーバード」の感想を書いておきたいんやけど、読んだ時、ゆっくり明滅を繰り返している裸電球がぶら下がった暗い部屋、みたいな印象をもった。抽象的な思考があんまり得意でないのでジャッジのみなさんみたいにうまく言えなくてすみません。手触りとか感覚でしか言われへん。この連作から感じたのは、言葉の上で、しかも短歌という縛りをもうけた表現形式にのって(定型から意識的にはみ出してるけど)、できる限りの振れ幅とできる限りのバリエーションで距離を表現しようちゅう挑戦をしてるんちゃうか、みたいなことやった。けど「百億光年」とか「一兆年後」みたいな途方もない距離は無理やしハナから眼中になくて、ちゅうのは自分というものがあるから。人間として生まれた精神や身体が犬のリードみたいにくっついてるから、そんなに遠くには行かれへん。人間は無限に近い射程を持っとるはずの言葉によって人間になったけど、しかし実際には、わりと有限。自由なつもりのわれわれが閉じ込められている小部屋の姿を浮かび上がらせてくれるのが「ハーバード」なんちゃうかなあ、と思った。

 

時間ひとつ取っても、

 

500年 とかそこまでこころは離せずにタイルの模様ここだけ違うの

 

みたいに、言葉を使ってさえ500年という時間を跳ぶのはきつい。

 

目をはなすと信長はもう死んでいて夜のあかるさ都心のひろさ

 

みたいに、信長(死んだの439年前らしいです)(しかもこれ多分現代のコンテンツ内の信長ですよね。大河ドラマとか。結局見逃してるし)に思いを馳せるのが、ギリ。

 

地理的な距離かって、地名出てくるのを引用すると、作中主体が上京してきた東京の「首都高」(「ともだちの窓から」の解釈が定まらんので心象風景かもしれん)、「山手通り」に始まって、「富士山」。このへんから現実的な「その場所」性がぼやけだして「関西」、「ハーバード」(日本から10.776km)、「ローマ」(日本から9,724km)どんなけ遠くても「月」(地球から384,400 km)。遠いっちゃ遠いし、月は、まあだいぶ遠いですけど人類は行ったことあるし、言葉でならぽんと言ってしまえる「百億光年」とかと比べるとわりかしつましい。けっこう等身大。

でも人間は言葉と認知を使って、地理的とも時間的とも違う方法で遠くに行くやり方も知っとる。それはたとえば

 

クリーム色の軽自動車と思ったけどあれはクリーム色とは言わないな

 

で誤認識がいとも簡単に立ち上げるパラレルな世界の車やし、

 

街の色は服の色かもしれないねって自分が言ったとは思えない

 

で提起される自己の連続性への疑念であったりする。かと思ったら、

 

きみが躍るときみに合わせて音楽が鳴ってるようだ ほんとうにそう

 

みたいに今・ここをビタッとめちゃめちゃな近距離で照らし出す瞬間があったりもする。ていうのが「ハーバード」の好きなとこで、ちゅうか真夜中に脳みそカッカさせながらこれ書きよるせいで初読時より今あきらかに好きになっててやばいんやけど、そういう感じです。あと、一首の中に時間的・空間的・認知的な距離の要素が遠近さまざまに複数組み合わされてんのが面白みやと思うんで、そこから一個の要素取り出して並べたのはかなり無粋やったと思うけど、それはすみません。

 

で、鯨井久志さんの評でつっこまれることになった一首はこれでした。

 

関西にも生まれたかった関西弁でボウリングしてたのしいやろな

 

初めて読んだ時、私は「あー」って思った。あー。言うよねー。けっこういろんな人がさあ、関西生まれじゃない人がさあ、そういうこと言うよねー。と思って、スッと流した。実際多いもんな。大学とか特に多かったわ。不満まじりの半笑い、くらいで、明確な怒りではなかったと思う。うすらイラッとはしたかも。ちょうどその時私は「ハーバード」を声に出して読んでて、それはある種のテキストが一行読んだ瞬間から私に朗読を要請することがあって「ハーバード」がそれやったからやねんけど、ずっと標準語イントネーションを念頭において読んどったし、「ボウリングしてたのしいやろな」はそれを引きずった響きに、意識せずともなった。なんべん読んでもそうなる。ほんでそのたびにうすらイラッとして、おもろ、と思う。上の言い方でいうと、東京在住者が思う関西、という地理的な距離と、関西に生まれたIFの自分、という現実と仮想間の距離を重ねた歌ちゅうことなんかな。

 

鯨井久志さんの「ハーバード」ジャッジ評を読んで考えたこと

で、準決勝のジャッジ評が公開されてびっくりした。鯨井さんえらいキレてはるやん。関西生まれの関西弁話者として。「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう。見下すのもいい加減にしてほしい」とまで言うてはる。お二人のやり取りの論点はおもに二つあって、それは固有名詞の扱いと関西弁の扱いで、配分としては固有名詞の方がやや大きい。その中からことさら関西弁についてのみ言及してんのは私の都合ということはまず言うとかなあかん。言いました。

評をきっかけに過去見聞きした非関西弁話者の関西弁にイラッとした瞬間、イラッとしなかった瞬間、色々な自分の記憶をあさってみた。イラッとせんかったのはたとえば、関東から来た転校生が半年後くらいにふと関西弁で答えた、みたいな瞬間。自然に関西弁が染みたんか、馴染みたい思いから意識してそうしたか。からかわれることもあるけど仲良くしてる子らはおおむね好意的に受け取ってたように思う。でもそもそも、「おんなじ言葉話したら仲間」みたいな感覚ってかなり危ういし大人になってみると警戒すべきもんやってわかるけどな。やから言葉はすぐ政治や統治に使われてしまう。標準語かってそういう目的もあってつくられたんやろし。でも心の動きとしてはそう。

非関西弁話者にイラッとするのはたとえば、あきらかにおちょくる目的で誇張した関西人を演じられた時(粉モントーク、金にがめついトーク、でんがなまんがな)は論外として、誰かがボケたこと言って突っ込む時だけ関西弁になる、みたいな便利な使い方されるんも意外とイラつく。で、けっこう高頻度で見かける。わしらの言葉が直截に感情表現する時、ユーモラスな雰囲気をふりかけたい時の道具として便利に使われとる、現実でもテレビでもインターネットでも。憧れの発露やとしても、憧れってそんな上等な感情とちゃうくて、要はロールプレイなんよね。自分のアイデンティティの一部がさらわれてお祭り屋台のお面にされてるような感じ。あっ、腹立つな。鯨井さん! わかりましたよ! ぜんぜん的はずれな可能性あるけど!

ちゅう感じで若干の紆余曲折を経て鯨井さんの評に一方的な共感を寄せたわけやけども、それはそれとして機会があったら鯨井さんにお尋ねしてみたいこともある。鯨井さんはジャッジ評の冒頭で「非現実のフィクション空間は一種の願望充足であり、何週間も続く一種の白昼夢である」と書いてはるし、「わたしはわたしでしかあり得ないからこそ、わたしでないという夢を見たい」とも書いてはる。これはめちゃ普遍的な願望やと思うし、個人的にも納得できる。ほんで、「関西にも生まれたかった」はまさに願望充足を試みる歌であり(なんせ生まれたかったやもんね、住みたかったとかやなくて)、「関西に生まれたわたし」を夢見てつくられた一首であることは、疑いがないんとちゃいますか。「わたしでない夢」を希求する鯨井さんがこの歌をあかんと思ったとしたらなんであかんのでしょうか。評は字数制限もあるので「腹が立った」としか書かれてなくて、そのあたりくわしくお聞きできたらおもろそうやなあと思いました。

私自身の考えを書くなら、どういうわけかとかく中央と周縁というものが発生してしまうこの世界にあって「わたしでないわたし」を夢見た時、そこに高低差を含まないことはほぼ不可能なんちゃうかと思う。作中主体が東北出身らしいというほのめかしは、前作「銘菓」においてさえかなり薄くて、「ハーバード」ではそれなりに長く東京に住んでいる人という属性のほうが固有名詞の扱いから見てもずっと前面に出てしまった。やから作中主体にとって関西が周縁的な地いうことを否定すんのはむつかしい。でも、東京の中にもまた中央と周縁があって、この作中主体はそのフィールドの一体どこにおるのやろう。

この問題は考えれば考えるほどやばくて、正直書くの苦しくなってきてんねんけど、それは自分がある時は周縁にいる者として侮蔑とか憧れを向けられて、ある時は中央にいる者として身勝手な侮蔑とか憧れを向けとるはずやから、ほんで踏み込むほどにその両面が浮かび上がってきてしまう。たとえばシス男性が美少女Vtuberをやっている、みたいな場面に対してシス女性のわたしは、普段口にはせんけど「女のイメージのキラキラしたとこだけすくい上げて楽しそうですなあ。そのアバター生理くるんか、こら」みたいに、これはものすごい暴言ですが、つい思ってまう。逆に、「羊飼いになりたーい」「灯台守になりたーい」みたいに発言したことが私も過去を振り返ればあって、その願望は「人とかかずらわずに生きていきたい」の言い換えで、「羊毛の卸し先との信頼関係構築」とか「灯火故障時における船舶の緊急誘導」とかはぜんぜんこれっぽっちも考えてない。「わたしでないわたし」という願いには、土地、あるいは性別、あるいは職業、少なくとも何がしかの遠さが含まれとるはずで、それは周縁から中央へ、中央から周縁へ、無数のグラデーションがあるやろう。幻想文学やSFでさえ現実のものに材を取って生み出される以上、そのグラデーションのエグみをちょっと薄れさすくらいのことしかできへん。自分の立場で得られる利をしばしば無自覚に享受しつつ、向こうが持っとる実際的なしんどさへの理解が欠けた状態で向こう側に立つことを望む、つまりないものねだりをする、時に、より無自覚な特権を持っている中央から周縁への憧れがよりグロく見える。そういうことなんやと思う。誰しもそういう幼稚な、しかしそこそこ切実な願望から自由ではおられんのやないか。たとえ中央におっても、そもそも中央とか周縁いうもんがある世界自体に倦み疲れとるいうことは往々にしてあるわけやから。私もいつか書いてしまうかもしれん。いや、きっともういっぱい書いてもうてる。

ぜんぜん話逸れるけど「ちいかわ」のキャラって、社会や労働に疲れた現代の私たちが憧れる小さくかわいく無垢な存在として生み落とされたのに、結局過酷な労働に明け暮れてるやんか。しかも作中「強くなりたい」と願ってちいかわ的存在から怖い化け物になってしまったキャラがいるっぽいことが示唆されてて、あれって「わたしでないわたしになった先に待っている現実」の話なのかもしれませんね。でも自分が書くってなったらどうしたら誠実になるんかわからへん。

 

左沢森さんから鯨井久志さんへのジャッジをジャッジ評を読んで考えたこと

そして、ジャッジを受けてファイターからジャッジのジャッジがあり、11月21日にそれが公開されました。左沢さんから鯨井さんへの評、めちゃめちゃおもろかった。めちゃ真摯やったし、読めてよかったと思った。「ハーバード」と鯨井さん評を思わず読み返した。ブンゲイファイトクラブは、やっぱりおもろい祭りやと思う。

左沢さんは大いに力を傾けて、「関西にも生まれたかった」の歌にある程度の反発があるとは予想していたが鯨井さんのそれが一際強烈やったことや、非関西弁話者として関西弁話者(の書き手の作品)に憧憬をおぼえていること、そしてそこに「語りの特権性」を見ていること、などを書いてはる。決勝作品書きながらこれ書いて、他のジャッジにも評を書いてる左沢さんは、ほんまにすごい。

関西弁がもつ語りの特権性。トッケンとか言われるとカチンときて反射的に反論しとなるけど、これは、正直、ある。少なくとも私は小説を書く上で、関西に生まれたこと、けっこうラッキーと思ってる。思ってた。そのことに気付かされてしまった。ドラマチックな抑揚、緩急の激しさ、荒々しさ、多少の構文や論理の破綻をねじ伏せてしまえる情感の豊かさ。そして何より、メディアへの浸透率が東京弁を除いて全方言の中でダンチなこと。それは日本の歴史において途中までは政治の中心が京都にあって、京言葉が権威を持っていたことが影響してるのかもしれへんし、関西のお笑い芸人が関西弁を引っさげて全国区のメディアに進出していったことは、もちろん大いに関係してる。関西地方ローカル局のアナウンサーは他の地域ではありえへんほど方言(関西弁)でしゃべる。それは「テレビのお仕事という垣根を超えて、私個人が思うところは」という、建前と本音の切り替えスイッチとして機能する。ひと昔前のフィクションに登場する方言話者といえば第一に関西弁話者で、そのキャラクターの典型は、野心的で/手段を選ばないが/表裏がなく/感情表現豊かな/憎めないやつ、みたいなイメージ。まあ、「表裏なく」は最近変わってきて市丸ギンとか御堂筋翔みたいなやつもおるけど。せやから、東北出身ですと明かされた上で左沢さんに関西弁について「語りの特権性」と言われたら、「ハイ」とうなずくしかない。

そやけどほしたら、反射的でなく考えてみて、左沢さんのジャッジジャッジ評に反論の余地はないのやろか。とか言って、天の邪鬼やので今度は鯨井さんの肩持ちたくなってしまう。左沢さんは「主体も東京出身の人間ではないということを明示することで「標準語/方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました」と書いてはる。これはどないやろなあ。ほんまかなあ。怪しいんちゃう、て私は思う。だって、ほんまにそれを狙ってたんやとしたら、一連のBFC3出場作品になんでいっこも東北の言葉が出てこおへんの。作中主体が地方出身者であることは、「遠かった東京」(ハーバード)のような距離を表す単語と、「萩の月」(銘菓)という銘菓に託されている。あるいは「簡単に津波が出てくる昔のマンガ」(銘菓)から読み取れる。けど、言葉は。口語的な表現に東北を思わせる音の響きは見られへんし、ちゅうかむしろ、全体にものすご東京っぽい。いや、それが正しいのはわかってる。左沢さんが拾い上げる感覚に、あのトーンはものすごよう似合ってる。好きや。けど、「権力構造をとっぱらう」というにはあまりに東京弁っぽい。「誰かのおかげじゃないぜ」(銘菓)とか多少ぶってるにしてももう東京味のグミみたいやん。ほんで権力構造に揺さぶりをかける役割は、共通語のカウンターとして全国的に認められている方言、つまり関西弁のみに背負わされている。それって私には、今ある権力構造を是認してるだけのように思えるんやけど、どないでしょうか。

たとえば実際、ジャッジの評を方言で書いてる人は一人もおらん。ファイターの作品には、共通語に近い東京弁はごめんやけど置いといて、宮月中「花」と生方友理恵「カニ浄土」(どっちも大好き)が方言を効果的に使ってる。それは方言による異化効果と、方言によって生じるコミュニケーション齟齬の可能性を秤にかけた上で、彼女らの手腕ならばお釣りがくるという目論見あってのことやと思う。あるいは、方言話者としての自負がそこに乗っかる。私は関西弁話者やけど、小説の半分以上くらいは共通語で書くし、日記もだいたい共通語で書くし、明日からまた共通語に戻ると思う。それはなんでかって言うと、言葉の経済性に敗北してるからや。共通語で書くんが一番通りがええ。方言ではどうしたって正確に伝わる率が、減る。下品な言い方すると、コスパが悪い。「「標準語/方言」の権力構造をとっぱらう」という試みは、この連作において失敗してると思う。けど、「関西にも生まれたかった」の歌と、そして鯨井さんと左沢さんの応答は私に強烈な一撃をくれた。それは、「関西弁話者が関西弁で小説書いて何が悪いねん」と思っていた私こそが方言なめてたんちゃうかってことや。関西弁話者が生きてきた関西弁を小説に落とし込むんやなく、「標準語/方言」の権力構造を内面化した上で、関西弁ちゅうお祭り屋台のお面をかぶっておどけてただけなんちゃうかってこと。他地域の方言を他ならぬ私も消費してたんちゃうかってこと。だからほんまに、ほんまに、この一連のやりとりは、ありがたかった。ありがとうございます。

 

おわりに

ここからはブンゲイファイトクラブとは関係ない話です。

基本的に、みんなもっともっと方言で創作したらええのにって思てる。共通語に近い言葉でしゃべってる人なんてほんの一握りのはずやのに、見かける作品に方言はものすごい少ない。自分が生きてきた言葉で出すんが一番自分とテキストの間に齟齬がないのに決まってんのに。共通語で書くの大変なんですよ。何が大変って、一番は会話の場面。語彙や言い回しは言うほど苦労せえへんけど、実は会話のトーンっていうか構築の仕方にも地域差がある。東京を舞台に書こうとしても、私は東京の人がどう会話を組み立てていくんかぜんぜん知見がない。たとえば関西やと典型的には「こないだ植物園行ってんやんか」「また行ったん。家やん」「特別展やってたから」「家賃はろてるもんな」「年パスや。ほんで……」みたいな、いちいち言葉尻に反応してジグザグ走行する感じ(やや誇張あり、会話をかき混ぜる塩梅はかなり個人差がある)。社会言語学の本で勉強した限りやと東京は「こないだ植物園行って」「よく行くね」「特別展をやってたんだ」「年パスもってるんだっけ」「そうそう、それで……」みたいな、確認、確認、を重ねていくみたいな……イメージなんやけど……どうなんやろ……。

けど、実際自分でも関西弁で創作する率はあんまり高くない。なんでかって言うとやっぱり、コスパが悪いからや。関西弁話者には深く細かく伝わるかわりに、それ以外の話者には「関西弁でまくしたてる文章」って印象になる。書く時にしたって「思てる」とか打つのに「思ってる」って打って戻って「っ」消してるからね。

ちなみに他地域の方言で創作するのは、阿波しらさぎ文学賞に投稿した時「ちちぢち」でやったけど、今思うとあんまよくなかったと思てる(そしたら受賞者の蕪木Q平さんが「あまいがきらい!」で主体を自身と同じ土地の出身に設定しており、目からウロコやった)。

 

でも同時に、方言で創作する時にこぼれるもののこともよく考える。それを考えるきっかけになったのは『日本方言詩集』(川崎洋 編)やった。全国47都道府県の方言で書かれた口語詩を集めたすごい詩集なんやけど、読めば読むほどに限界を感じてしまったのも事実やった。端正に並んだ活字に起こす際にこぼれたに違いない、鼻濁音や破擦音、[æː]や[sɯ̈]。私の脳はそれを再生できへん。

それを解消できるとしたら朗読しかないと最近よく思う。方言話者が方言で創作をして、朗読で届ける。さらに言うと朗読会を自身の出身地に近い場所で行う場合は、コミュニケーションの齟齬という問題も低減される可能性が高い。共通語が圧倒的に強い言葉の経済性はここにはおよばへん。だから具体的にどうこう言うんやないけど、もし関西で定期的に朗読会ができるなんちゅうことになったとしたら、関西弁しばりで朗読することにしょうかなあ。お面なんかやない私の関西弁。