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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

霜柱

今日からまたちょっとずつ日記をつけたい。短くていい、いいことや面白いことを言わなくていい、時間をかけなくていい、書くこと自体に楽しみがあればいい、って思ってるのに何回でも失敗する。

 

仕事で山を訪れた。大昔は里山だったのだが今はひと気が絶えて有志の手で整備されている。少し上ると隠し田があった。忍び田ともいうそうで、昔は年貢が厳しくて自分たちの食べる分がなくなってしまうので、こうして山の中に小さな田んぼを作った。まあ脱税ですね。知らずに見ても赤茶けた池にしか見えない。そばには柿の木があるし、綿なんかも栽培していた痕跡があるそうだ。少しでも生活を楽にするために作られたのだろうけれどのどかな風景を想像してしまう。希少なカエルが卵を産んでいた。

水面には氷が張っていた。田んぼに水を供給するパイプのあたりは飛沫が散るらしく、そばの枯れ草についた水滴が凍ってじゃらじゃらとつららになっていた。なんだか鍵束かクリスマスのオーナメントみたいだった。田んぼの脇に湿っぽい土が露出していて、白い小さいものが光るのでよく見たら霜柱だった。やったー。私の住んでいた土地には霜柱というものはめったに現れなくて、冬の朝早くに田畑へ行けば見られたのかもしれないが、ほとんど経験がない。手のひらに取って見ると霜柱はまっすぐ育たずにカールしていた。すごくきれいで口に含みたくなる。霜柱をばりばり踏んで歩くのが夢なのだが、踏むにはずいぶん小さかった。

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少し前から梅崎春生にはまっている。青空文庫でタイトルあいうえお順に読んでいて、今は『桜島』。梅崎春生の作品には九州で暗号兵をしていた頃の体験を反映したと思われるものが多い。それから、些細な会話や事件がその後の人生を大きく変えてしまう、という筋書きも多い。たとえば『狂い凧』は双子の兄弟の人生をたどる話だけれど、弟がひとり東京へ出ていくことになるきっかけは、友人たちと起こしたうどん食い逃げ事件だったりする。なのに面白い。しかし今日はロシアがウクライナを侵攻し続けていることもあって、敗色濃厚な時期の軍隊の描写と距離をとるのが難しくて集中できなかった。

 

帰ってから遅い昼食に猪骨ラーメンを食べた。同居人が獲った猪の骨を気長に煮て豚骨ならぬ猪骨スープを作るという初めての試みをやったんだけど、大正解だった。薬味も入れずにただ水で骨を煮て、そこに猪の肉を入れて煮猪を作りつつスープに肉のダシを足し、最後に植物性のダシが欲しいということで昆布を足し、ラーメンにする時は薄口醤油で塩気をつける。めっぽう美味しい。具は煮猪と味玉と葱。豚骨ラーメンってなんとなく苦手でお腹を壊しやすく、あっさりしたラーメンの方が好きだったけどこれは気に入った。お店の豚骨ラーメンはドロドロ志向が強いし(京都のラーメンがこれまたドロドロスープが多いのだ)、背脂とか化調が合わなかっただけなのかもしれない。ただやっぱり脂はすごいので今これを書いている二十二時現在もまったくお腹がすかない。今日はお茶漬けか何かで済ませようかな。

歌声 『琵琶法師 山鹿良之』@京都みなみ会館

日曜日に思い立って京都みなみ会館で『琵琶法師 山鹿良之』を観てきたんだけど、映画館へ向かう途中でなかなか印象深い出来事があった。

朝早くから仕事で奈良に行っていた。予定通り終われば余裕で上映時間に間に合うはずだったが三十分ほど押し、最寄り駅からではぎりぎり間に合わない。そこでタクシーの行き先を少し遠くにある馴染みのない駅に変えて、そこから向かうことにした。ゆっくり昼食をとる時間がないので駅前のコンビニで適当におにぎりとかを買う。軒先の小さなベンチに腰掛けてもそもそやっていたら、遠くの方から声がした。「タぁ~~ルゥルララァ~らりる~~~」と聴こえる。歌声だ。いや、奇声かもしれない。ちょうどその間くらいで、どっちなのだかわからない。「タぁ~~ルゥルララァ~らりる~~~」「タぁ~~ルゥルララァ~らりる~~~」と同じフレーズを繰り返しながらだんだん声が近づいてきて、曲がり角からゆっくりとおじいさんが現れた。白髪で、ものすごく腰が曲がっていて、老人がよく押しているチェック模様のカートを押している。そして変わらず朗々と「タぁ~~ルゥルララァ~らりる~~~」とやっている。足元はフラフラしているし、目はどこを見ているのかわからないし、ちょっとぼけているのかな、と思った。でもいい声だ。遠くにいる時は遮蔽物があるせいか奇声っぽかったけれど、こうやって近くで聴くと練習を積み重ねた声だとわかる。そのほか全部がおぼつかない感じなのに声だけが力強く若々しくまっすぐだ。いやいや待てよ、あまりにも上手い歌声って日常から逸脱していて、この距離だとやっぱり奇声に聴こえるな。そんなことを考える間におじいさんはよろめきつつも歩を進め、コンビニに入っていった。あの発声は声楽なのかなあ。オペラとかやってたのかもしれない、しらんけど、などと思いながら続きを食べていると、「悪いけど座らせてくれる」と声がして、顔を上げるとさっきのおじいさんだった。手に小さなビニール袋を提げている。「どうぞ、もう食べ終わりますから」と立ち上がると、「悪いなあ」と言っておじいさんはベンチに腰掛け、袋からワンカップ酒を取り出して飲み始めた。おお、そういう感じの日曜ですか。去り際、いい声ですねと声をかけようかとも思ったが言い出せず、「ほなさいなら」とだけ挨拶して駅の方へ歩き出した。改札をくぐるあたりでもう一度「タぁ~~ルゥルララァ~らりる~~~」が聴こえた。

 

ところ変わって京都みなみ会館。上映時間に無事間に合った。同居人も観に来ていた。『平家物語』を読み終えてからというもの、我々は琵琶に興味津々なのだ。『琵琶法師 山鹿良之』は明治三十四年生まれの”琵琶弾きさん”である山鹿良之さんを追ったドキュメンタリーで、一九九二年の作品。「小栗判官」の琵琶弾き語りの合間に、山鹿さんの生活や周囲の人々、琵琶と密接な関わりを持つ熊本県の宗教行事の様子などが映し出される。山鹿さんは僧侶でもあって、朝は勤行から始まるし、かまど払いに呼ばれればお経を唱えて琵琶を弾く。つまり誇張でもなんでもなく、山鹿さんは琵琶法師なのだった。琵琶の弾き語りについては、すごい、としか言いようがない。撮影当時九十一歳、若い頃に左目を失明して右目も光を感じる程度にしか見えず、老齢が重なって耳は遠くなり、手にもしびれが来ている。それでも舞台で語り、地域の夜籠りで弾き、弟子の前で語り、小栗判官の墓前で弾く。琵琶を抱えた山鹿さんは、琵琶と身体がくっついてしまっているように見える。琵琶を弾くこと物語を語ることが、生活にも仕事にも人間関係にも信仰にも、あまりにも深く食い込んでいる。

前日とこの日だけは十六ミリフィルムでの映写で(そのために上映前に音声が出ないトラブルがあった)、上映後には玉川教海(片山旭星)さんによる口演も行われた。映画で山鹿さんの弟子として登場する方だ。初めて聴く生音の琵琶で感激だった。演目は、ひとつが「小栗判官 照手姫」から「もの狂い」の場面。いろいろあって殺されたものの閻魔大王のはからいで目も耳も口もきけず動けない餓鬼の姿となって現世に戻った小栗判官は、土車に乗って道行く人々に曳いてもらい、熊野の権現と薬湯を目指して旅をする。こちらもいろいろあって青墓宿でこき使われている照手姫が餓鬼を乗せた車を見つけ、目立つ美貌を隠すためにもの狂いの格好をして、愛する小栗判官だとも知らず街道を押していく、という場面。餓鬼車(すごい名前だ)をひと引きすれば千僧供養、ふた引きすれば万僧供養のご利益がある、とすることで動けなくても目的地まで運んでもらえるギミックとか、愛する人だと知らずに手助けするという展開がおもしろい。「エイサラエイ、エイサラエイ、エイサラエイサラエイサラエイ」という掛け声も印象に残った。

もうひとつは山鹿さんから伝えられたという端唄で、「り(き?)をあらためる」という題名、意味は謎。新年に歌うものだそうで、七福神の乗った宝船が乗り付けてきて舞って歌って大宴会、松の枝には米や金がなり鶴が降り立ち亀がはいのぼる……(うろ覚え)という感じでとにかくめでたいめでたい歌だった。

平家物語』を読み終えてから物語を声で語ることについてずっと考えていた。そのピースがひとつはまった、ような気がする。それから映画を観ている間もときどき、コンビニで出会ったおじいさんのことを思い出した。ある種の人間はどんなになっても芸術に取り憑かれたままで、きっと死ぬまで互いの手を離さないのだということを。私はどうだろう。

寒さのせい

最近、気づいたらTwitterを十八時間くらい見ていなくて話題についていけないし発言したいことも特に無い、ということがよく起きて戸惑っている。昨年の九月にスマホからアプリを消して数ヶ月、望んだ通りの成果が出たと言えるのだが何か釈然としない。これはもしかすると老いなのではないか。中年になって急に揚げ物やアルコールがだめになるみたいに、情報の奔流に胸焼けがするようになっているのでは……。冬の底は毎年絶不調なので、単に寒さのせいだと思いたい。カフェイン錠とビタミン剤と強壮剤とやる気がでる(と言われている)サプリを三種類飲んでようやく通常の七割くらいの元気さをキープしている。

 

今日は文学フリマ京都をちょっとだけ見に行った。犬と街灯のスペースとバゴプラさんのスペースに立ち寄って、あとは下調べなしでうろうろした。東京の何分の一の規模ではあるけれど、自分の足が止まるスペースは界隈ですでにある程度名が知られているか、知人~知人の知人の名前があるか、テーマが明確で自分の興味と合致しているか、デザインが優れているかだ。「知らない人の表紙なし平綴じコピー本を手に取ったら存外良かった」みたいな出来事は、自分に限っていうとほぼない。要するにディグるのが下手なのだと思う。見本誌コーナーで青いゴム手袋をはめて本を物色していると、そういうかなり単純な消費者である自分を背後で眺めている自分、みたいなものが立ち上がってきてしょんぼりした。しょんぼりついでに言うと、頒布物に「書くことは素晴らしい」「それでも書き続けるんだ」という感じのものがたくさんあって、自分でも内心書くことには素晴らしい面があると思っておりその理由をいくつか挙げることができるにもかかわらず、また個々の作品に対しては何も思わないのだが、そういう頒布物が場に複数集まっていると強く反発したくなるのはなぜだろう。ああ、やっぱり文学フリマは出る側が一番楽しいですね。それでも目当てにしていた本が買えて嬉しかった。帰りに府立図書館で資料を借りた。貸出不可の『国際昔話話型カタログ 分類と文献目録』、欲しいけど買うと二万円する。二万か~。

木の葉

二日の日に日帰り弾丸帰省をやったら正月から生活リズムが大崩れしてしまい二日間寝込んでいた。カフェインとサプリの摂取を控えていたせいもあるかもしれない。のしイカのごとき活力のなさが等身大の自分なのだろうという気もする。今日久々にカフェインを多めにとってサプリを飲んだら気が大きくなって多弁になり、資料を読みすすめたりクソみたいな執筆環境をいい加減改善しようと計画を立てて通販でドカドカ買い物したり予約を入れたりした。天候や脳内物質にいともたやすく左右される自分、波にもまれる木の葉の舟のようでよくわからないよ。今日はリハビリなのでこのへんで。