/* 本文の位置 */ #main { float: left; } /* サイドバーの位置 */ #box2 { float: right; }

蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

歌声 『琵琶法師 山鹿良之』@京都みなみ会館

日曜日に思い立って京都みなみ会館で『琵琶法師 山鹿良之』を観てきたんだけど、映画館へ向かう途中でなかなか印象深い出来事があった。

朝早くから仕事で奈良に行っていた。予定通り終われば余裕で上映時間に間に合うはずだったが三十分ほど押し、最寄り駅からではぎりぎり間に合わない。そこでタクシーの行き先を少し遠くにある馴染みのない駅に変えて、そこから向かうことにした。ゆっくり昼食をとる時間がないので駅前のコンビニで適当におにぎりとかを買う。軒先の小さなベンチに腰掛けてもそもそやっていたら、遠くの方から声がした。「タぁ~~ルゥルララァ~らりる~~~」と聴こえる。歌声だ。いや、奇声かもしれない。ちょうどその間くらいで、どっちなのだかわからない。「タぁ~~ルゥルララァ~らりる~~~」「タぁ~~ルゥルララァ~らりる~~~」と同じフレーズを繰り返しながらだんだん声が近づいてきて、曲がり角からゆっくりとおじいさんが現れた。白髪で、ものすごく腰が曲がっていて、老人がよく押しているチェック模様のカートを押している。そして変わらず朗々と「タぁ~~ルゥルララァ~らりる~~~」とやっている。足元はフラフラしているし、目はどこを見ているのかわからないし、ちょっとぼけているのかな、と思った。でもいい声だ。遠くにいる時は遮蔽物があるせいか奇声っぽかったけれど、こうやって近くで聴くと練習を積み重ねた声だとわかる。そのほか全部がおぼつかない感じなのに声だけが力強く若々しくまっすぐだ。いやいや待てよ、あまりにも上手い歌声って日常から逸脱していて、この距離だとやっぱり奇声に聴こえるな。そんなことを考える間におじいさんはよろめきつつも歩を進め、コンビニに入っていった。あの発声は声楽なのかなあ。オペラとかやってたのかもしれない、しらんけど、などと思いながら続きを食べていると、「悪いけど座らせてくれる」と声がして、顔を上げるとさっきのおじいさんだった。手に小さなビニール袋を提げている。「どうぞ、もう食べ終わりますから」と立ち上がると、「悪いなあ」と言っておじいさんはベンチに腰掛け、袋からワンカップ酒を取り出して飲み始めた。おお、そういう感じの日曜ですか。去り際、いい声ですねと声をかけようかとも思ったが言い出せず、「ほなさいなら」とだけ挨拶して駅の方へ歩き出した。改札をくぐるあたりでもう一度「タぁ~~ルゥルララァ~らりる~~~」が聴こえた。

 

ところ変わって京都みなみ会館。上映時間に無事間に合った。同居人も観に来ていた。『平家物語』を読み終えてからというもの、我々は琵琶に興味津々なのだ。『琵琶法師 山鹿良之』は明治三十四年生まれの”琵琶弾きさん”である山鹿良之さんを追ったドキュメンタリーで、一九九二年の作品。「小栗判官」の琵琶弾き語りの合間に、山鹿さんの生活や周囲の人々、琵琶と密接な関わりを持つ熊本県の宗教行事の様子などが映し出される。山鹿さんは僧侶でもあって、朝は勤行から始まるし、かまど払いに呼ばれればお経を唱えて琵琶を弾く。つまり誇張でもなんでもなく、山鹿さんは琵琶法師なのだった。琵琶の弾き語りについては、すごい、としか言いようがない。撮影当時九十一歳、若い頃に左目を失明して右目も光を感じる程度にしか見えず、老齢が重なって耳は遠くなり、手にもしびれが来ている。それでも舞台で語り、地域の夜籠りで弾き、弟子の前で語り、小栗判官の墓前で弾く。琵琶を抱えた山鹿さんは、琵琶と身体がくっついてしまっているように見える。琵琶を弾くこと物語を語ることが、生活にも仕事にも人間関係にも信仰にも、あまりにも深く食い込んでいる。

前日とこの日だけは十六ミリフィルムでの映写で(そのために上映前に音声が出ないトラブルがあった)、上映後には玉川教海(片山旭星)さんによる口演も行われた。映画で山鹿さんの弟子として登場する方だ。初めて聴く生音の琵琶で感激だった。演目は、ひとつが「小栗判官 照手姫」から「もの狂い」の場面。いろいろあって殺されたものの閻魔大王のはからいで目も耳も口もきけず動けない餓鬼の姿となって現世に戻った小栗判官は、土車に乗って道行く人々に曳いてもらい、熊野の権現と薬湯を目指して旅をする。こちらもいろいろあって青墓宿でこき使われている照手姫が餓鬼を乗せた車を見つけ、目立つ美貌を隠すためにもの狂いの格好をして、愛する小栗判官だとも知らず街道を押していく、という場面。餓鬼車(すごい名前だ)をひと引きすれば千僧供養、ふた引きすれば万僧供養のご利益がある、とすることで動けなくても目的地まで運んでもらえるギミックとか、愛する人だと知らずに手助けするという展開がおもしろい。「エイサラエイ、エイサラエイ、エイサラエイサラエイサラエイ」という掛け声も印象に残った。

もうひとつは山鹿さんから伝えられたという端唄で、「り(き?)をあらためる」という題名、意味は謎。新年に歌うものだそうで、七福神の乗った宝船が乗り付けてきて舞って歌って大宴会、松の枝には米や金がなり鶴が降り立ち亀がはいのぼる……(うろ覚え)という感じでとにかくめでたいめでたい歌だった。

平家物語』を読み終えてから物語を声で語ることについてずっと考えていた。そのピースがひとつはまった、ような気がする。それから映画を観ている間もときどき、コンビニで出会ったおじいさんのことを思い出した。ある種の人間はどんなになっても芸術に取り憑かれたままで、きっと死ぬまで互いの手を離さないのだということを。私はどうだろう。