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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

三十日

気になるところだけ大掃除をやったあと昼を食べに二人で出かけた。評判の良い蕎麦屋に向かったのだが、ラストオーダーの時間が思ったよりも早くて着いた頃にはもう準備中になっていた。かわりに入った洋食屋が当たりで、またぜひ行こうと話し合った。食べたのはカキフライとエビフライのプレート。付け合せの人参の酢和えにクミンを加えたやつがおいしかったので真似しよう。

揚げ物をたっぷり食べたせいか夜になってもお腹がすかず、オートミールの粥で簡単に済ませた。そのあとおせちを作る作業をいくつかやった。実家はクリスマスもおせちもしっかりご馳走を作る方で、母がクリスマスなら七面鳥やフルーツパンチ、お正月ならおせちのお重を作っていたけれど、二人暮らしの家でそこまでやる気力は私にない。田作りや紅白なます松前漬けなど、楽に作れて好きなおせちを数種作って、買えるものは買って済ませる予定だ。

ただ不思議なことにクリスマスのご馳走の方が好きだと思っていたけれど、作ろうというやる気が出るのは断然おせちの方だ。黒豆を自分で煮たくなって、実力的にきっとキャパオーバーなのでぐっとこらえたり、余裕があったらたたきごぼうと酢れんこんと車海老と……手を広げたくなったりしている。なぜだろう。不思議だな。おせちって保存がきくようにだいたい出汁と醤油と砂糖とお酢で味がつけてあって似通ってるんだけど、なんだか好きだ。マメに暮らせるようにとか見通しが良いようにとか腰が曲がるまで生きられるようにとか、縁起物の言葉遊びも信じてるわけじゃないのに嫌いにはなれない。そういえば七面鳥の味は大好きだけれど、どうしてクリスマスに七面鳥を食べるのか私は知らない。ストーリーが欠けているということなのかもしれない。

お雑煮もたくさん食べたい。最初はすましに片栗粉をふった鶏肉と金時人参と焼いて焦げ目をつけた餅を入れて、次は白味噌でゆで餅を入れて。三つ葉だって安く買える十一月中に買って冷凍してある。ああ高まってきた!!

鹿脂に関する覚書

正月に向けて冷蔵庫にスペースを作るため、骨のぶんかさばる鹿のバラ肉を使ってすき焼き風を作った。なかなか大仕事だった。鹿のあばらの肉は全部位の中でもっとも調理しづらい。骨がくっついていて取り回しが悪いし、肉は薄い膜に覆われており食感は固め。骨と骨の隙間についた肉まで剥がそうとするとさらに細かな作業を要する。これまでは一本ずつばらしてスペアリブを作りかじって食べていたのだが、今回は圧力鍋で柔らかく下茹でをしてから骨を取り除き、すき焼き風に食べる方法を試した。「すき焼き"風"」というのは初めに肉を焼くことをしないからだ。

鹿を調理する上で敵となるのは、実は鹿の脂だ。鹿脂の融点は五十五度、三十度前後の鶏や四十度前後の豚と比べてもかなり高い。脂の融点が高いということはつまり室温程度ではすぐ白く固まってしまうということで、冷めた鹿脂は口溶けが悪く、ざらっとした食感が残る。だから冬に鹿をおいしく食べたいならお皿はしっかりと温めておくべきだし、何よりできたてのうちに食べるのがいい。下処理の段階で脂をなるべく取り除くのもいい。鹿脂は「ろくし」と読む。「しかし」じゃないんだ。ちなみにいい匂いのハンドクリームなどで有名なロクシタンは、海外ブランドだと思われがちだけれど実は長野県発祥で、鹿脂を防寒用軟膏として販売していた「鹿脂丹(ろくしたん)」という会社が前身だ。嘘です。

そういうわけで下茹で段階で脂を落とし肉を柔らかくすべく、圧力鍋に分割したあばらを骨ごと押し込み、かぶるまで水を入れて炊いた。アクをすくったら加圧する。圧力鍋を使い慣れていないので日和って加圧時間を五分にしたけれど、結果からいうともう少し長めにして十分か十五分でもよかったかも。圧力鍋ってうっかり爆発させて顔面がグチャグチャになるところを想像してしまって怖い。火を止めて蒸らしたあと取り出し、トングと包丁を使って骨から肉を外した。炊事場が激寒なせいで一分くらい経つともう脂が白く浮かび上がってくる。鹿脂は本当に手強い。肉は良い感じに柔らかくなっていたが膜の多い箇所が今一つで、結局細かいところは手で剥がすので左手が砕けた蝋燭まみれみたいな見た目になってげんなりした。ところで人の脂って人肌で溶けるのかな? などと馬鹿なことを考えた。

処理を終えるとまな板の上に白い脂が層を作っていたので包丁でこそげて捨てた。鹿の茹で汁を熱いまま流すと、途中で脂が固まって排水管が詰まる原因になるので注意が必要だ。

取れた肉の三分の二ほどをすき焼き風にまわし、野菜や豆腐と一緒に炊いた。これまで試した中でいうと一番正解に近いんじゃないかと思う。スペアリブはちまちまかじっていると残りがどんどん冷めて脂が浮いてきてしまう。その点、すき焼き風は熱々のまま各自のペースで食べられるところがいい。肉の味が濃いので割り下にも負けない。脂っけがほしければ適宜牛脂を足すなどすれば良いと思う。

圧力鍋に残った茹で汁はそのままにしておいた。一夜明けると、果たして表面に真っ白な鹿脂の円盤ができていた。新雪を汚すような気持ちでお玉で割って取り出すと厚さは三ミリほどもあった。

クリスマスの怖い夢

深夜に二時間、明け方二時間というやくざな眠り方をした報いなのか、悪夢を見てうなされた。どちらもクリスマスの夢だった。

 

大学生の私が石畳の広場を歩いている。前方にはヨーロッパの博物館を思わせる石造りの巨大な建物が見える。今日はあの中の教会で社会史学の講義があって、開講時間はもうすぐだ。だけど気分が乗らない。遅刻するかもしれないし、荘厳な雰囲気が苦手だ。それに入館前に詰め所で門番の女性にあいさつをしなければならない。結局講義をさぼって建物のすぐ脇に立っているたこ焼き屋に入る。なんでこんなに雰囲気の違う建物が隣り合っているんだよ。都市計画とかないのか。店主が常連客と盛り上がっているタイプの店でうわっと思ったが、我慢して座る。たこ焼きを待つ間にもおしゃべりは続く。べらべらべらべら……。だんだん苛立ってきて、グーグルの口コミに低評価レビューを投稿しようかと思い始める。頭の中で文章を練るが、ざっくばらんな店の雰囲気をくさすつもりがなぜか褒める文になってしまう。軌道修正を試みても次々と店を称賛する文言が湧き上がる。そのうち本当にいい店に思えてきて投稿をあきらめる。やっとたこ焼きが出てきて、食べながら店の外を見ると、道の向こうに深い青を基調とした小さな洋菓子店が見える。看板に「シュトレン販売 13:20~14:10」と書いてあり、時計を見るとあと少しで販売が始まる時間だ。ちょうどいい、買って帰ろうと席を立とうとした瞬間、店主が「これサービスねッ」とたこ焼きをもう一皿出してくる。焦って二皿目を食べているうちに洋菓子店には人だかりができ、シュトレンはあっという間に売り切れてしまう。がっかりだ。手持ち無沙汰になった私はスマホで石造りの建物の公式サイトにアクセスし、講義会場を映し出すライブ配信を見る。社会史学の講義はもう終わったのか人の姿は見えない。教会らしく美しく磨き上げられた木製の座席が整然と並び、その上を吊り下げられた巨大なクリスマスツリーがブランコみたいにゆっくりスイングしている。きらめくオーナメントやまぶしい電球の光にうっとり見惚れていると突然秒針の音が響き始め、十二月二十六日〇時〇分を告げる壊れた鐘の音とともに暗転、教会の中は黒サンタの宴と化す。黒サンタだ。墨のように黒いサンタ服を着た直立不動の老人。足元にバタバタと人が倒れて小山をなしている。みな全身が真っ黒で、のたうちまわってうめき声をあげている。教会の席は焼け焦げ、破壊され、ぼろぼろに朽ちている。頭に角を生やした悪魔のような男が黒い体をわななかせ、白目だけをくっきり白くむき出して絶叫する。

 


もうひとつの夢。失踪した友達を探している人がいる。失踪した友達は幹線道路沿いを移動しているらしく、沿道のベンチには不思議な模様が残されている。ベンチの手がかりを追っていくと、当の友達が箒にまたがって空を飛んでいる。科学か魔法なのかはっきりしない。ようやく追いつくと、友達は小部屋に我々四人を招き入れる。クリスマスプレゼントだよと示された四つの籠の中には、同じデザインで色違いのペンが色別に盛り付けられている。誕生日ごとに色が違うらしい。ペンはセーラームーンの変身ペンをミニマルにしたような細軸のデザインで、ペン先と反対側に横長の六角形をした結晶がくっついている。私の誕生日ペンはエメラルドにミルクを溶かしたような緑色だ。突然扉の外が騒がしくなり、禍々しい気が吹き荒れて小部屋に侵入してこようとする。一つ目の黒サンタの瘴気だと直感する。みんなでペンをかざすと、ペンは部屋の外の怖いクリスマスからみんなを守ってくれる。

 

最後は今日人から聞いた夢の話。夢かしらと思ったときにほっぺたをつねる、という古典的な仕草があるが、その人は先日、念願叶って夢の中でほっぺたをつねることに成功したのだという。本当に痛くないので、夢だ! と気づいて感激したそうだ。「夢の中でほっぺたつねるコツ分かる? あんな、普段から現実でほっぺたつねるようにするねん!! そしたら夢の中でもスッとつねれる」と教えてくれた。

鹿の木

今、夜中の一時七分。明日の朝までに片付けるべき仕事をさぼって日記を書いている。寒い夜中に起きていなければならないのは辛い。ほんの少しでいいから楽しみが必要だ、あと気を入れて作文をする前のストレッチにもなるし。という理屈でそうしているわけだが、こういうことをしているから後でますます追い詰められるんだよな。知ってる。

 

今日山へ散歩に行ったのもそうだった。寒波が襲来して非常に寒く、日課の散歩ができないまま午後になったところへ同居人から誘われ、仕事を放り出して雪がちらつく中出かけた。昨日罠にかかって腹抜きまで済ませた猪を山から降ろすのだという。役に立てることはなさそうだ。ただついていくだけ。毛糸の帽子の上からウインドブレーカーのフードをかぶり、実家から取ってきたばかりの鋲付きの長靴を履いた。

山を上る間に粒子の細かい雪が勢い良く降り始めた。猟場に着く頃には地面や植物にうっすらと積もっていた。シダの表面に目を凝らすと、ときどき六角形の結晶が見える、ような気がする。猪は若いオスだった。やや小さめだが、それでもバックパックに収めるのには苦労した。いろいろな事情を検討した結果、同居人は山で解体せずに猪をかついで降りることにしたのだった。内臓を抜いても三十キロはあろうか。はちきれそうなバックパックを背負い、ベルトを両肩に食い込ませながら黙々と一歩ずつ山を下るのを後ろから見ていて、すごいなと思った。帰り道は落ち葉が白い雪に隠されて、行きとは景色が変わっていた。長靴は何年も放置していたせいで穴が開いていたらしく、小川に足を突っ込むと靴下のつま先に水がしみこんできて、八甲田山だったら死因になるやつだった。

同居人は表情が苦しそうだ。猪が重いことよりも、重心が偏っているために不自然な姿勢を強いられることが辛いという。ふざけ半分に「気が紛れるようにおもしろい話をしてやろうか」と言ったら、してくれ、と言うのであわてて話を考えた。

オオサンショウウオが河で遊んでいると、向こうから何かが流れてきた。それは白と茶色の棒みたいなもので、枝に似ているけれどふつうの枝と何か違っている。妙に硬くて軽かった。オオサンショウウオはしばらく振り回して遊んだが、じきに飽きてしまって、河原の土に突き刺すと、枝のことはすっかり忘れてしまった。春になると枝はぐんぐん大きくなり始めた。オオサンショウウオと河の動物たちはそれを見つけて、あれこれと木を世話してやった。夏になると花をつけた。けれどもその花は変わっていて、黒くて丸くてゴムみたいで、しっとりと湿っていた。秋になると花はしおれて、そのあとに小さな実ができた。実は日に日に大きくなった。するとどうだろう、その実は一頭の鹿の姿をしているではないか。大きくなった鹿の実は、ときどきふーふーと息をしたり、もぞもぞと身体をよじったりするようになった。ある日オオサンショウウオが脇腹をくすぐってやると、鹿は笑い声をあげた。その拍子に頭にくっついていた枝がぱちんと外れ、そのまま地面にどうと落ちた。鹿はすぐに立ち上がり、上流の向こうにある山へ走って帰っていった。あの枝は、鹿のなる木だったんだなあ。山に暮らす鹿のいくらかは、鹿の木から生まれたものなんだ」

「おもしろい」と同居人が言ったのでほっとした。

 

さて、二時ちょうどになった。仕事をして眠ろう。