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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

点取日記 22 この道はいつか来た未知

道を覚えるのがあまり上手くない。

 

引っ越して始めの1週間、つまりつい5日ほど前まではGoogle Mapなしで家に帰るのが難しかった。帰りは暗くて道がわかりにくく、しかも距離がそれなりにあるので当てずっぽうで方向を間違えると悲惨なことになるのだ。

最近ようやくGoogle Map離れができたところである。何かの間違いで今も世界にGoogle Mapが発明されていなかったら思うとぞっとする。

 

方向に強い人というのは、東西南北の感覚が体にインストールされているらしいと聞いた。その場でくるくるまわっても、ぴたっと止まればどちらが北か、たちどころにわかるというのだ。

そういう一種の特殊能力ではないにしろ、おおよその脳内地図に自分という点を投影してざっくりと歩き出せる人はけっこういるのじゃないかと思う。

 

タチドコロもザックリもできない私は、どうやって道を覚えていくのかというと、ただ印象に残った道端の物体を記憶する方法をとっている。

古びたお店の装飾、不機嫌そうな犬の置物、今さら猫よけペットボトル、道の大胆なひび割れ、出しっぱなしのはしご、手製の「駐車禁止」の看板、政治家のポスター、云々、云々。

それらを糸のように手繰って歩いている。ちょっと複雑なだけで、やっていることはヘンゼルとグレーテルだ。

 

もちろんそれはここ数日の話。いくら私だって以前は足掛け11年同じ場所に住んでいたので、帰り道で迷うなんていうことはなかった。考え事にふけっていたっていつの間にか足はちゃんと体を正しい方向へ運んでいる。まるで自動運転だ。いや、私は元々自分で動いているんだけど。

 

 

しかしよく知っている道が新鮮さを取り戻す瞬間があって、私はけっこうそれが好きだった。

たとえば長期旅行から帰った時。初めて家に来る人を案内する時。すごく嬉しいことがあった時や、すごく嫌なことがあった時。

会社に退職願いを出した日なんかすごかった、街路樹いっぽんいっぽんの幹が光り輝いて見えた。あれを再体験するためだけにもう一度就職したいくらいだ。

精神的に大きな変化があると既知のものも違って見えやすいのだろう。文学でいうところの異化である。

 

それで話は今に戻るけれど、実は今日また帰り道で迷いそうになってしまった。

道は合っているのになぜだろう、覚えたばかりの貼り紙や猫よけペットボトルがなんだかよそよそしい。

結局、はっきり目印になるようなお店や交差点の名前を頼りに歩くしかなかった。

 

なんとか家に帰り着き、玄関に抱えていた箱を降ろすと疲労感がやってきた。

箱?

そう、私はAmazonの箱を抱えて歩いていたのである。

色々な雑貨を注文して、駅前のコンビニでそれを受け取ったのだ。

 

「それでか」と思った。

サイズは小脇になんとか抱えられる程度。大したことはないが、歩行への影響は意外と大きい。箱を押さえている左腕は歩く時振ることができず、視界にダンボールが常に入っている。ゴトゴト音も鳴っている。

 

覚えたての帰路は記憶が脆弱すぎて、Amazonの箱ごときで異化されてしまったのだ、たぶん。なんとわびしい話でしょう。これから大樹のようにたくましく育っていってほしい。私の道。

 


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「あまりパッとしないようです 4点」

 

おっしゃるとおりです。