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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

常世と浮世のあわい スケラッコ「盆の国」(リイド社)を読む

ホホホ座で私の夏が完成した

8月14日、京都のホホホ座へ行った。お目当ては先月リイド社から発売された「盆の国」。そして作者のスケラッコさんが描く似顔絵だ。

 私の顔を知っている人は分かってくれると思うけどかなり似ている(だいぶかわいくなっていますが!)。スケラッコさんの世界に入ったみたいでうれしい。あと、ふつうだったら肩には「盆の国」に登場する猫、しじみが乗るようなのですが、私の肩にはエビずしを乗せてもらった(エビずしはスケラッコさんの昔の漫画に由来している)。これは自慢です。

 

「盆の国」がトーチwebで連載されているとは聞いていたのだけれど、なんとなく読む機会がなく、単行本でイチから読んだ。

結論からいうと、すごく面白かった。そして私は最高のタイミングでこの漫画を読んだ読者のひとりだと思う。

 

「盆の国」 ネタバレのないあらすじと感想

【あらすじ】 

主人公の秋は六堂町に住む女の子。今は夏休みの最中、8月15日のお盆の日だ。お盆の季節になると昔から秋は帰ってきた死者の霊、「おしょらいさん」の姿を見る。今年も亡き祖父や飼い猫、この春に亡くなったばかりの同級生、新見くんのおしょらいさんを見かけた秋は、おしょらいさんたちが帰ってしまうことがさみしく、夏休み前に友人とケンカをしたこともあって、「お盆がずっと続けばいいのに」と願ってしまう。すると空に黒雲の渦が現れ、翌日から町は8月15日のまま日付が進まなくなる。何度も8月15日を繰り返し、おしょらいさんが帰らない世界のなかで、秋は不思議な青年、夏夫とともに町を元に戻す手がかりを探し始める。

 

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読み始めて衝撃だったのは「この人こんなに漫画達者だったの!?」ということだ。失礼ながら数年前に読んだ「にぬき・ビール・デマエ」というまんが(ひらがなでまんがと書きたい)の印象が強すぎて、ストーリー漫画を読む構えができていなかった。だって私が読んだの、猫とビールと女の子が同居してるまんがだよ!?女の子がエビずしをおみやげに買ってきて「エビずしやんけ!!!」パウパウ(擬音)つって、「散歩いってくる!」つってさあ、外に出たらエビずしがしっぽ振ってついてきてさあ、エビずしちゃ~~ん!!!つってさあ…大好き…。友達の間で流行りました。テンションあがったときに「エビずしやんけ!パウパウ!」って言うのが。無邪気やったなあ。あの頃はよう。全員はたち超えてたけど…はたち超えてたと思うとけっこうきついけど…。

 

本題に戻ると、「盆の国」はストーリー漫画であり、しかもかなりきちんと構成された漫画でした。1話にさりげなく登場した要素が、終盤でふと現れる。それらは伏線と呼んでしまうと味気なくて、もっと日常に近いものだ。私たちの住む現実の細部には、過去があり未来があり、ふだんは忘れているけれど、暮らしのなかでふたたび顔を出したりする。「盆の国」の物語もそのようにして、さまざまな要素がゆるやかにつながりあいながら進む。つながりはいつしか大きな波になって、物語を大きく動かしていく。

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物語の体験としてもっとも近いのは小学校の頃に読んだ児童書だ。今ぱっと思い浮かぶのは富安陽子の「キツネ山の夏休み」「空へつづく神話」、さとうまきこ「9月0日大冒険」、広瀬寿子「風になった忍者」など、「少年/少女が夏休みに不思議な体験を通して、他者や小さな世界を救い、また自身も変化する」物語たちである(ストーリーラインとしてはド直球の王道なので、これはネタバレにはならないと思いたい)。これらの物語を子供の私は夢中になって読んだけれど、「盆の国」で久しぶりその感覚を取り戻した。そして夏の日差しや電車のクーラーの涼しさ、お祭りの高揚感といった夏の感触を追体験しながら読むことができた。

 

そういうわけで、夏の少年少女に戻りたい人、おすすめの漫画です。できたら暑いうちに読んでほしい。紙版もKindle版もあるよ。

 

www.amazon.co.jp

以下、ぐっときたところを(ネタバレしまくりで)

ネタバレを気にしながら書くのも限界になってきたので、あとは好き勝手にここが好き!!というところを列挙します。

 

・画面構成の妙 黒/白/トーン

「盆の国」をパラパラめくると「いい感じ」がする。このいい感じってなんだろうと思って考えると、画面の具合がいい感じだなと思う。黒、白、トーンがよい具合に配分されている。じっくり読む前からこれはいい漫画だぞ、と肌でわかる。

 

こんな雰囲気だけでものを言っていてもしかたがないので、徐々に深読みゾーンに入っていこうと思うのだけれど、まずキャラクターデザイン、かなり考えられていると思う。

 

主人公の秋は黒い髪、大きな黒い眼、真っ黒に日焼けした肌。そして真っ白なシャツを身に着けている。作中で日焼けをしているのは彼女だけだ。

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秋の相棒となる夏夫は白い髪、色素の薄い眼、白い肌(作中でも言及がある)。そして黒地に白が入った縞柄の浴衣を着ている。

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一方で町の人々はなんだか白っぽい。服にもほとんどベタが入っていない。新見くんのおばさんも、ミサっちも、数回登場するのに髪の毛にさえ色が塗られていない。主人公以外で髪が黒いのは秋のお母さんと、生前の夏夫やゆきくらいではないだろうか(今確認したら何人かのモブも髪が黒かったですが)。

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これは明らかに意図されていて、あの世界で真に生きているといえるのは秋だけだ。無数のおしょらいさんは言うまでもなく、夏夫はオバケだし、町の人々は8月15日が繰り返されていることに気がつかない。強い日差しに白く照りかえった町のなかで、黒く日焼けした少女が奮闘する、その黒が主人公のアイコンなのだ。生者=白い世界に黒、死者=黒い世界に白、そのあわい=トーン、というのは素直に読んでよいと思う。

 

・夏夫の片二重のこと

キャラデザインで気になるといえば、夏夫は目が片二重である。左目の上にだけすっとひとすじ線が入っている。これ、夏夫が「生きてはいない、おしょらいさんにもなれない、中間の存在(オバケ)」だからですよね(とか言いつつ夏夫は生前から片二重なんですが)。

不思議な青年を片二重にしたことで生身の人間(だった)ことがぐっと立ってきていいなと思う。秋の絵や、カバー裏のシンプルなイラストでも片二重は省略されずに残っているから、夏夫の重要な特徴であることは間違いない。

 

さらにいえば、片二重はクライマックスにけっこう重大な役割を担っている。今にも落下しそうな秋が手を延べる夏夫をニセモノと喝破する場面、この時だけ夏夫の右の目が二重なのだ。

 

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ちなみに顔だけおじいさん(名前なんていうんだろう)の両目の上にはふたすじ線が入っている。これは深読みしすぎかもしれない。

 

・秋の目の下の傷

同じくクライマックスで、秋はケガをする。タイミングとしては顔だけおじいさんにつかまり、吹き抜けへ叩き落とされたあと、かろうじて手すりにつかまった時についたもののようだ。ケガの場所は右目の下。

これはつまり、夏夫の左目の二重と対になる線であり、常世をくぐり抜けた印でもある。正しい世界に戻っても傷は消えていない。傷はいつか治り、おしょらいさんはいつか見えなくなるかもしれないが、目の下の傷はあの繰り返された8月15日が本当にあったことの証なのだ。

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・春は誰なのか

主要な人物には季節が割り振られている。夏は夏夫、秋は秋、冬はゆき。では春は誰なのか?というのが、何度か読み返したのだけれどよくわからなかった。さきという名前らしいおばあちゃんの気もするし、春の雷で亡くなった新見くんかもしれない。

 

もうひとつ気になることがある。祠を壊したのは誰なのだろう。現実には春の雷が祠を壊し、それをきっかけに夏夫は出歩けるようになったと説明されている。秋が夏夫の過去を垣間見る夢のような場面では、祠に閉じ込められた夏夫を助けだすのは秋だ。そして夏夫の認識では、「そこから出してくれた人」は秋である。そうなるとあの時間が溶けたような空間のなかで、祠を壊したのは他ならぬ秋だったとも考えられる。

 

おわりに

思わぬ最高のタイミングで「盆の国」を読めて嬉しかった。私には一年の決まった日や季節に決まった作品を見返すという暗い趣味があるのだけれど(この記事参照)、「盆の国」も間違いなくそのラインナップに加わると思う。書いているうちに来てしまった8月16日からお送りしました。

 

アリ・スミスの『五月』を読み返す

私の48ある暗い趣味のひとつに、決まった時期に決まった作品をおさらいするというのがある。漫画だったら6月6日にはかならず高野文子の『奥村さんのお茄子』を読むとか、音楽だと9月にアース・ウインド&ファイアーの『セプテンバー』を聴きまくるとかそういうのだ。

 

5月にも読もうと決めている作品があって、それはアリ・スミスの『五月』という短編小説だ。岸本佐知子が編訳した『変愛小説集』(講談社)というアンソロジーに収録されている。

 

ヘンな恋愛小説を集めてあるから『変愛小説集』。私はこの本が大好きで、ⅠもⅡも単行本で読んだし、群像で『変愛小説集 日本作家編』の企画があったときも、大喜びで書店に走った。

 

『変愛小説集』は文庫化されていて、手に入りやすいし、どのお話もすごくよいのでおすすめである。

 

変愛小説集 (講談社文庫) | 岸本 佐知子 | 本 | Amazon.co.jp

 

それでも、なかでも、私はこのアリ・スミスの『五月』が大好きで、何度も何度も読み返している。だけどこの小説についてきちんと考えたことがなかったので、5月もあと一時間半というこのタイミングで、文章にまとめることにした。

 

以下、ネタバレがあります。ネタバレで魅力が損なわれる小説ではないけれど、一応注意しておきます。

 

アリ・スミスの『五月』は、次のような一文で始まる。

 

 あのね。わたし、木に恋してしまった。どうしようもなかったの。花がいっぱいに咲いていて。 

 

 

この小説は、翻訳版で20ページほどとごく短いけれど、2つのパートで構成されている。前半は主人公である「わたし」の視点から、よその家の庭に生えていた木を発見し、ひと目で恋に落ちる場面が描写される。「わたし」は我を忘れて木を眺めつづけ、不審者として警察に補導されても意に介さない。「わたし」は毎日自宅から木を双眼鏡で眺め、夜になると恋人が寝付いたあとに(「わたし」は恋人と同居している)、こっそり木の元へ通うようになる。

 

後半は視点が移り、「わたし」の恋人である「私」から物語が描かれる。木に恋をした、と告げられた「私」は最初こそ人間との浮気を疑うが、本当に相手が木だとわかり、安堵する。しかし「私」は「わたし」の奇妙な振る舞いに振り回され、とうとう警察に連行された「わたし」を迎えに行く羽目にまでなる。ふたりで家に戻ったあと、「わたし」はまたロフトに木を眺めに行ってしまう。「私」は本棚から、木にまつわる神話を探してやる。神が人を木に変えた話、木が人の奏でる音楽にこたえた話、神の求愛から逃げるために木に姿を変えた娘の話。「わたし」はそれをベッドで喜んで読む。その夜、「わたし」はまたベッドを抜けて木の元に行き、「私」はあとからついていって、「わたし」の隣に身を横たえる。

 

私がこの小説を特別好きなのには、いくつか理由がある。ひとつは木の描写が素晴らしいこと。木と出会って一瞬で恋に落ちた「わたし」は、花びらの白をたたえ、まだ見ぬ緑の葉をたたえ、幹の中に隠された年輪や吸い上げられる水の流れをたたえる。その描写がとても美しい。作者は本当に木に恋をしたことがあるのでは、とさえ思う。私にとって全体に、この小説は「本当のこと」だと感じられるのだけれど、木の描写はとくにそれを裏打ちしている。

 

それから登場人物が愛おしいこと。木に恋をする「わたし」は恋でめちゃくちゃになってしまっていて、行動も思考もかなり破綻している。警察沙汰を何度も起こすことはもちろんだけれど、「木を所有することなんてできない」と語ったすぐあとに「あれはわたしの木だ」と言ったりする。それでも、木への恋をきっかけに世界のありようががらっと変わってしまう、そのことに真正面から向かっていく「わたし」がおかしくて健気で、素敵である。

 

一方で恋人の「私」も、彼女の恋人に負けず劣らず奇妙な人だ。

余談だけれど、翻訳版の主人公たちはどちらも女性である。原語では性別が特定できないように書かれているそうで、女性同士のカップルであるという判断は、翻訳者の岸本佐知子さんによるものだ。私はこの選択がすごく気に入っていて、物語にもぴったりだと思う。

話を戻すと、「私」だってずいぶん健気である。木に恋をしたと言う恋人に面食らいはするものの、その気持には理解を示そうとするし、警察へ迎えにも行く。そして何より、彼女のために神話を探してやり、木の元へ抜けだした彼女のそばによりそう。

 

この小説の「変愛」は、人から木への恋という、それだけではないと私は思う。

「わたし」と「私」の恋も、かなりヘンだ。翻訳版で女性同士のカップルだからということでは、もちろんない。

 

この物語には「神話」という単語が登場する。

ひとつは、「わたし」が木に恋をしたと「私」に打ち明ける場面。

 

神話みたいな意味で? と私は言ってみる。

神話なんかじゃない、とあなたは言う。なによ神話って。本当に本当の話なのに。 

  

人と木の恋、と聞いて神話を連想するのはごくふつうの流れだが、「わたし」はそれを否定する。ところが、物語の終盤で、「私」はさらにこの「神話読み」を推し進める。神が娘を追い、逃げた娘がとうとう一本の木になったという神話を本棚から探し出し、「わたし」に手渡してやる。「わたし」はそれを嬉しそうに読む。さきほどは否定したのに、反応が矛盾してはいないか。それはどうしてなのだろう。

 

この物語で「わたし」は木に恋をするのですが、同時に「わたし」は「木に姿を変えた娘」なのだと、私は思います。「私」の恋人はどうしようもなく変容してしまった。ひょっとしたらもう、元に戻らないかもしれない。それでも「わたし」が木のそばを離れないように、「私」は「わたし」を離れない。神話の構図はそこにこそ現れていて、それを「わたし」も感じているから、「わたし」は喜ぶのではないか。

 

神話の好きな場面として、「私」が抜き出すのは次のような場面です。

 

――木の輝くような美しさ、そして神がなすすべもなく、枝を取って自分の体を飾った 

 

これは本当に本当の話。五月にあった本当の話だと、私は読み返すたびに思います。

台湾で行った場所① 茶と茶料理と茶畑の村 猫空(Maokong)

台湾に行ってきた

2泊3日で台湾に行った。行きたい!!と思う強い理由があったわけではなくて、「ごはんおいしいらしい」「わりと安全らしい」、あと「1月に飛行機のチケットが安く売られてた」みたいなフワッとした動機である。

帰ってきた今は「台湾は最高、また行きます」という気持ちだ。それで、最高の感じを残すため旅行日記を書くことにした。

 

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わざわざ読んでくれる人に軽く断っておくと、この日記は外国人が日本を旅行して「飯の塊に生魚の切り身を乗せた料理が意味わからなくてよかったです」みたいなレベルの可能性がある。私は旅行前に台湾のことをほとんど調べなかったからだ。事前調査は書店で「るるぶ」とか「ことりっぷ」を手にとって1分くらいパラパラやって終わりだし、帰ってきた今も何が台湾の一般常識なのかよく知らない。

 

なぜ調べなかったかというと、必要がなかった。一緒に行った人がたくさん調べてくれていたこともあり、本当にありがたかったけれど、それ以上に日常会話で「今度台湾に行きます」と言うと、100パーの確率で女の子が台湾情報をくれるのだ。私の観測によれば女の子には(1)台湾に行ったことある女の子 (2)台湾に行ったことないがいつか絶対行く女の子 の2種類しかいない。「台湾ならここに行け!」「お土産はあれがオススメ」「行ったことないけど屋台のあれがおいしいらしい」などなど、結果、ほぼ調べずして台湾のうわさをたくさん手に入れることができた。女の子は台湾が大好き!江戸時代の旅行ってこんな感じだと思う。

 

前置きが長くなったけれど、1日目は猫空(Maokong)に行きました。

 

出鼻に先制パンチを食らう

猫空はお茶の村だそうだ。台北桃園空港からバスで台北市の中心部に入り、台北車站(たぶん市内で一番デカい駅)から現地へ向かった。台北の端っこは都会と田舎が入り混じる不思議な都市で、そこそこ大きな山のすぐ向こうに高層ビルが見えたりする。

 

動物園の近くにある動物園という駅に着いた。わかりやすくていい。そこからロープウェイで山の景色を眺めながら上って行くと、猫空に行けるのだそうだ。

 

が。

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ロープウェイはメンテナンス中で5月いっぱい運行していなかった!

 

出鼻をくじかれた。どうする?行く?と話し合っていると近くのタクシーのおっちゃんが話しかけてきた。どうも運休を知らずやってきたうっかり者を待ち伏せて拾っているらしい。別の観光客にフラれたおっちゃんは私たちに「サンバイ、サンバイ」と指を3本出した。「300元で猫空まで連れてくよ」と言ってるようだ。(サンは三だし、バイ百度バイドゥバイですね)

 

時間ももったいないし、乗ることにした。あとでわかったことだけれど300元というのはまあまあ割高だ。とは言えタイを旅行した時には、後から料金を上げようとしたり、隙あらばメーターを倒さず発車しようとする運転手がいたことを考えると、ぜんぜん明朗会計だし良心的だと思う。

 

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猫空には10分ほどで到着した。ロープウェイが動いていないので観光客はまばらだ。きっと普段はもっと混んでいるのだろう。舗装された田舎道を歩いていくと、道の脇にある屋台はすべて畳まれて閑散としている。このまま昼飯抜きで茶畑だけ眺めて帰ることになるのでは?と不安になったが、目当ての飲食店は開いていた。よかった。

 

四哥の店

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2階にあがり、眺めのよい席に通してもらった。5月の山、眼下に家庭菜園、遠くには都市が見渡せて風通しがいい。お茶の炒飯と燻製チキンをお茶で煮込んだもの、豚の炒め物、茶葉の天ぷらを食べた。店員さんは日本語ぺらぺらではないけどジェスチャーや英語で親切に教えてくれるし、メニューすべてに和訳がついている。イージーモードである。

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お茶のパラパラ炒飯。上に乗ってるのは肉のでんぶみたいなやつで、台湾でしょっちゅう見かけた。スーパーでも売られていた。 

 

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燻製チキンの煮込み。やわらかくて香りが良かった。また食べたい。

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ピリ辛の豚の炒め物。肉には軟骨がついていてゴリゴリした食感。和訳に「イノシシ」とあったけれど、たぶんふつうの豚だと思う。台湾の「豚」の漢字は、「豚」と「猪」の間みたいなかっこうをしている。

 

奥のは茶葉の天ぷら。ぱりぱりであまり味はないけど、ちょっとほろ苦くておいしい。

 

全部おいしい!!これは幸先がいいぞと、夢中で食べた。

調子に乗って食べたらお腹がぱんぱんになった。動けないでいると店員さんが「サビースです」と言って甘いお茶まで出してくれたので(お茶を売りにしてるお店なので本当はちゃんとしたメニューだ)、お言葉に甘えてしばらくいさせてもらった。

 

生き物がいっぱい

店を出て、次はお茶屋さんに向かった。お腹も満足した状態でゆっくりゆっくり歩いたので、行きには見つからなかった沿道の生き物たちが次々目に飛び込んできた。

 

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デカイかたつむり、ここまで大きいと陸貝と呼びたくなる。

 

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キノボリトカゲっぽいトカゲ。

 

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うどんげの花とイラガの繭のあいのこのようなやつ。

 

などなど。

台湾での珍しさはわからないが、ちょっとあたりを見回すだけで見慣れない生き物がたくさん見つかった。

 

それは嬉しかったのだが、陽を浴びながら生き物を撮っていたらなんだか気分が悪くなってきた。

 

私は日光にすこぶる弱く、夏は外を歩くと一瞬で熱中症になりかける。たぶん前世がダンゴムシなんだろうけど、あいつらは昼間歩いてるのをけっこう見るので、やっぱりカマドウマかもしれない。5月といえどなかなかの夏日で、汗がダラダラ出て「しっ、死ぬ~~~!」となった。周囲に自販機はないし、がんばってお茶屋まで歩くしかなかった。

 

「お茶じゃなくていいからとにかく水をくれ」状態になったころ、お茶屋についた。

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六季香茶房 

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かっこいい。

 

入り口から階段を上ると、店員さんが出てきて席に通してくれた。すぐ近くの席ではお店のおばあさんが机に茶葉をどっさり乗せて仕分け作業をやっている。運よく客は少ない。

 

店員さんは日本語も英語もあまり通じなかったけれど、メニュー表とジェスチャー、筆談を交えて注文できた。頼んだのは、冷凍烏龍茶の新鮮な(あまり発酵させていないという意味)、春茶だ。茶梅というお茶請けとセットにした。自分たちでお茶を淹れるコースにするとほんの少し値引きされる。

 

はじめに店員さんが手順を見せてくれた。茶器のセットがかわいい。

 

①電気ポットの湯を、茶葉を入れた茶壺と、空の茶海に注ぐ。

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②お茶が出るのを待つ間、茶海から茶盃に湯を注ぎ、温める。

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③茶盃の湯を盆に捨てる。

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④茶壺の茶を茶盃に注いで、飲む。

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という手順を繰り返して、なんと8煎めまで飲めるらしい。1煎めはふわーっと青っぽい香り。2~4煎めでお茶らしさのピークで、お茶ってこんなにクリアで味濃くて美味しいのかとびっくりした。5煎め以降は「まあお茶だよね」という味に落ち着いていく。

 

これがすごく楽しかった。同じ動きを繰り返すのは気持ちが落ち着くし、お茶の味が移り変わって面白い。日本の茶道だとお作法があって自分にはちょっとハードルが高いかなと感じるけれど、だらだらおしゃべりしながら気軽にお茶を飲めるのがいい(ほんとはお作法があるのかもしれない)。私は下戸でほとんどお酒が飲めないが、大茶飲みにはなれるかもしれない。

気づくと2時間くらい経っていて、お腹がお茶でたぽたぽだった。熱中症ぎみの体もこれだけお茶を飲めばおとなしくなるというものだ。

 

長尻をし、あらためてお店を眺めると、やっぱり雰囲気がいい。野良猫だか飼い猫だかが店の中を横切っていって、愛想をふりまくでもない。5月、快晴、台湾、午後3時の山の上、人の少ないお茶屋。死ぬ前に絶対走馬灯で見たい。むしろ死んだらここに来たい。死んで無限に出る茶葉でお茶を飲み続けたい。とすら思った。

 

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すっかり台湾茶のファンになったので、自分でも茶器がほしくなったけれど、その後の旅でこれはという茶器についに出会えなかった。高価すぎて手が出なかったり、持って帰れないほど道具が多かったり大きかったりした。訪れた村で、住人が軒先に使い古した茶器を出して飲んでいて本当にうらやましかった。最終日にダメ押しで三越百貨店に行ったが(台湾には三越百貨店がある。老舗だそうです)、最初に見当をつけた「家具製品」のフロアに茶器はなく、「生活雑貨」のフロアでコーナーを見つけた。生活雑貨、生活、生活なんだよな。と思った。そこの茶器も私にはまだ早いお値段で買えなかった。

いつか絶対に自分のための茶器がほしい。

 

帰り道

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お茶で元気になったので、帰りは茶畑の間の道を散歩した。

 

時々、タイル貼りのきれいな祭壇を見かけた。祠だろうか、お墓だろうか。

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これは昔の豚舎跡。豚の解釈が日本と少し違う気がする。

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ところでさっきからマイクロバスを見かける。調べると、ふもとの動物園の駅まで運行しているバスらしい。やはりロープウェイとタクシー以外にも交通手段があったのだ!一応バス停はあるが、乗る場所はどこでもいいようで、私たちの十数メートル先にいる人たちが今まさに手を振ってバスを止めた。あわてて走って、私たちも乗せてもらった。ふもとまで15元。タクシーの料金の10分の1だけど、行きはバスを見かけなかったのだから仕方がない。

駅に向かう途中で雨が降りだした。猫空、人少なくてよかったな。時間とタイミングが何もかも素敵だった。

 

おまけの小ネタ 台湾のトイレ

台湾のトイレはたいてい洋式で、どこもそこそこきれいだった。きれいさでいうと大阪都心の地下鉄のまあまあ歴史ある駅のトイレくらいだ。この説明で伝わるのかわからないが、①ちゃんと水洗式で、②掃除は行き届いているが、③まあまあ古く、④ウォシュレットなど電気的な機能はない。という感じ。

紙を流すのは一般的でないようで、そばにゴミ箱が備え付けてある。使った紙をゴミ箱に捨てるのは地味にストレスがたまった。同じような観光客がいるらしく、よく「紙を流さないでください!」といろんな国の言葉で書かれた貼り紙を見かけた。

それで、日本に帰った次の日ちょっと面白かったんだけど、地下鉄のトイレに入ったらこういう貼り紙を見つけた。

 

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紙を流す/流さないについて、日本と台湾で注意書きが反転している。

 

あと台湾でこういうのを見た。 

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日本でもめっちゃ見るやつ!ユーザビリティ~!国が違ってもやりがちなミスは似通っているようだ。

鴨ストーカー、朝方の川にあらわる

進捗ダメです

今年度の狩猟が解禁されてからずいぶん経った。私の地域での猟期は半分を過ぎ、残り約1ヶ月だ。網猟の進み具合がどうかといえば、あまりよろしくない。というよりも、まったくダメ、ぜんぜんダメ。同じく今年が初猟期の海底クラブ氏は着々と銃猟でヒヨドリホシハジロをゲットしているというのに、こちらは箸にも棒にもかからない。憎い!猟果のあるやつが、憎い!「憎たらしい」ではなくてふつうに憎い!(©石野卓球)何見てんだコラ、おもしろコンテンツじゃないんだよ!はい終了終了ー!帰って!ここから反省会しかしないから帰って!

 

網猟の場所選び

猟場の下見や出猟自体はそこそこしていた。網猟のアドバンテージは、銃猟が禁止されている市街地や休耕地などでも行える点にある。一方で流し猟が可能な銃猟にくらべて、場所選びの要素が大きい(と思う)。またカモ類を狙う場合は普段から餌付けを行う必要がある(と思う。勉強中なのでぜんぶ素人考え)。つまり網猟には「アクセスしやすい」「ターゲットがいる」「網を仕掛けやすい」場所を見つけることが肝心と思われた。だから、とにかく近隣のため池や細い川を自転車で地道にまわり、よい場所を見つけることにした。

 

サイクリングはサイクリングで冬季うつ病の予防策にもなったり(過去記事)、理屈抜きでただ気持ちよかったりといいことがあった。しかし目的はあくまで猟場である。

 


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ようやくカルガモのいる川を見つけた。カルガモたちはでっぷり太り、橋の上からいやらしい目で見つめられているとも知らず藻を食べていた。

 

ひたすらカモをつけ回す事案

曇りの日の朝、突き網を持って出かけた。突き網はこの記事で作ったものだ。試作品だが、まあダメ元である。あんなにダメだとは思わなかったけど。

 

川にカルガモが2羽いることを確認し、しばらく通りすぎてから土手に降りた。そうっと引き返し、視界にカルガモが入った……。

 

ドパァ

 

何が起こったのか一瞬わからなかった。大きな影が2つあっという間に離れていくのが見えた。カルガモたちはこちらに気づいた瞬間、ノータイムで飛び去ったのだ。そりゃあ簡単に近づけるとは思っていなかったけれど、ここまでとは。なんという警戒心の強さ、そして機動力の高さ。カルガモたちは、数十メートル飛んでから川にふたたび着水した。

 

それからはもうイタチごっこである。距離を詰めては、

 

ドパァ

 

忍び寄っては、

 

ドパァ

 

待ち伏せては、

 

ドパァ

 

といった調子だ。カルガモとイタチごっこをやることになるなんて。一度はそこそこの距離まで詰めることに成功したが、撒き餌を投げるために腕をふりあげたら

 

ドパァ

 

となった。

 


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カモにエサすらやれないのか。

 

悲しくなった。何も捕って食おうというのではないじゃないか。いや、捕って食うつもり満々なんだけれど、もう私が今日君たちを捕って食えないことは明らかじゃないか。狩猟と矛盾しているように聞こえるかもしれないが、私はだいたい生き物が大好きだ。カモを近くで眺めたりエサをやれたりしたら、それだけでけっこう嬉しいのだ。それを君たちは。

 

そうやって2時間ばかり川沿いにカルガモを追いかけ回していたが、とうとうカルガモたちは

 

グァッ

 

と鳴き捨て、最後の

 

ドパァ

 

をやって川から遠く離れていった。今ぜったい「ウゼェ!」って言った…カルガモに「ウゼェ」って言われた…。長時間おかしなやつに追いかけられてうんざりしたのだろう。終盤には、沿道から私が視線をやるだけでスーッと逃げるようになっていた。他の通行人やランナーのことは気にもとめないくせに!

 

途中でだんだん気付いたが、これではまるでストーカーだ。狩猟はいい。動物が動物に戦いを仕掛け、知恵比べ体力比べのなかで勝負が決まるのだから。しかし、あわよくば食おうというつもりで挙動不審に近づきながら、「こっちは好意でエサをやろうっていうのに!」と逆ギレする始末。これは、これではあまりにも……。

 

結論:突き網でカモは無理

次は置き餌からの穂打ち網猟を予定しています。

 

おまけ


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近くで見つけた猫。

猫は素晴らしい。なぜなら近づいても逃げないからだ。