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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

アリ・スミスの『五月』を読み返す

私の48ある暗い趣味のひとつに、決まった時期に決まった作品をおさらいするというのがある。漫画だったら6月6日にはかならず高野文子の『奥村さんのお茄子』を読むとか、音楽だと9月にアース・ウインド&ファイアーの『セプテンバー』を聴きまくるとかそういうのだ。

 

5月にも読もうと決めている作品があって、それはアリ・スミスの『五月』という短編小説だ。岸本佐知子が編訳した『変愛小説集』(講談社)というアンソロジーに収録されている。

 

ヘンな恋愛小説を集めてあるから『変愛小説集』。私はこの本が大好きで、ⅠもⅡも単行本で読んだし、群像で『変愛小説集 日本作家編』の企画があったときも、大喜びで書店に走った。

 

『変愛小説集』は文庫化されていて、手に入りやすいし、どのお話もすごくよいのでおすすめである。

 

変愛小説集 (講談社文庫) | 岸本 佐知子 | 本 | Amazon.co.jp

 

それでも、なかでも、私はこのアリ・スミスの『五月』が大好きで、何度も何度も読み返している。だけどこの小説についてきちんと考えたことがなかったので、5月もあと一時間半というこのタイミングで、文章にまとめることにした。

 

以下、ネタバレがあります。ネタバレで魅力が損なわれる小説ではないけれど、一応注意しておきます。

 

アリ・スミスの『五月』は、次のような一文で始まる。

 

 あのね。わたし、木に恋してしまった。どうしようもなかったの。花がいっぱいに咲いていて。 

 

 

この小説は、翻訳版で20ページほどとごく短いけれど、2つのパートで構成されている。前半は主人公である「わたし」の視点から、よその家の庭に生えていた木を発見し、ひと目で恋に落ちる場面が描写される。「わたし」は我を忘れて木を眺めつづけ、不審者として警察に補導されても意に介さない。「わたし」は毎日自宅から木を双眼鏡で眺め、夜になると恋人が寝付いたあとに(「わたし」は恋人と同居している)、こっそり木の元へ通うようになる。

 

後半は視点が移り、「わたし」の恋人である「私」から物語が描かれる。木に恋をした、と告げられた「私」は最初こそ人間との浮気を疑うが、本当に相手が木だとわかり、安堵する。しかし「私」は「わたし」の奇妙な振る舞いに振り回され、とうとう警察に連行された「わたし」を迎えに行く羽目にまでなる。ふたりで家に戻ったあと、「わたし」はまたロフトに木を眺めに行ってしまう。「私」は本棚から、木にまつわる神話を探してやる。神が人を木に変えた話、木が人の奏でる音楽にこたえた話、神の求愛から逃げるために木に姿を変えた娘の話。「わたし」はそれをベッドで喜んで読む。その夜、「わたし」はまたベッドを抜けて木の元に行き、「私」はあとからついていって、「わたし」の隣に身を横たえる。

 

私がこの小説を特別好きなのには、いくつか理由がある。ひとつは木の描写が素晴らしいこと。木と出会って一瞬で恋に落ちた「わたし」は、花びらの白をたたえ、まだ見ぬ緑の葉をたたえ、幹の中に隠された年輪や吸い上げられる水の流れをたたえる。その描写がとても美しい。作者は本当に木に恋をしたことがあるのでは、とさえ思う。私にとって全体に、この小説は「本当のこと」だと感じられるのだけれど、木の描写はとくにそれを裏打ちしている。

 

それから登場人物が愛おしいこと。木に恋をする「わたし」は恋でめちゃくちゃになってしまっていて、行動も思考もかなり破綻している。警察沙汰を何度も起こすことはもちろんだけれど、「木を所有することなんてできない」と語ったすぐあとに「あれはわたしの木だ」と言ったりする。それでも、木への恋をきっかけに世界のありようががらっと変わってしまう、そのことに真正面から向かっていく「わたし」がおかしくて健気で、素敵である。

 

一方で恋人の「私」も、彼女の恋人に負けず劣らず奇妙な人だ。

余談だけれど、翻訳版の主人公たちはどちらも女性である。原語では性別が特定できないように書かれているそうで、女性同士のカップルであるという判断は、翻訳者の岸本佐知子さんによるものだ。私はこの選択がすごく気に入っていて、物語にもぴったりだと思う。

話を戻すと、「私」だってずいぶん健気である。木に恋をしたと言う恋人に面食らいはするものの、その気持には理解を示そうとするし、警察へ迎えにも行く。そして何より、彼女のために神話を探してやり、木の元へ抜けだした彼女のそばによりそう。

 

この小説の「変愛」は、人から木への恋という、それだけではないと私は思う。

「わたし」と「私」の恋も、かなりヘンだ。翻訳版で女性同士のカップルだからということでは、もちろんない。

 

この物語には「神話」という単語が登場する。

ひとつは、「わたし」が木に恋をしたと「私」に打ち明ける場面。

 

神話みたいな意味で? と私は言ってみる。

神話なんかじゃない、とあなたは言う。なによ神話って。本当に本当の話なのに。 

  

人と木の恋、と聞いて神話を連想するのはごくふつうの流れだが、「わたし」はそれを否定する。ところが、物語の終盤で、「私」はさらにこの「神話読み」を推し進める。神が娘を追い、逃げた娘がとうとう一本の木になったという神話を本棚から探し出し、「わたし」に手渡してやる。「わたし」はそれを嬉しそうに読む。さきほどは否定したのに、反応が矛盾してはいないか。それはどうしてなのだろう。

 

この物語で「わたし」は木に恋をするのですが、同時に「わたし」は「木に姿を変えた娘」なのだと、私は思います。「私」の恋人はどうしようもなく変容してしまった。ひょっとしたらもう、元に戻らないかもしれない。それでも「わたし」が木のそばを離れないように、「私」は「わたし」を離れない。神話の構図はそこにこそ現れていて、それを「わたし」も感じているから、「わたし」は喜ぶのではないか。

 

神話の好きな場面として、「私」が抜き出すのは次のような場面です。

 

――木の輝くような美しさ、そして神がなすすべもなく、枝を取って自分の体を飾った 

 

これは本当に本当の話。五月にあった本当の話だと、私は読み返すたびに思います。