/* 本文の位置 */ #main { float: left; } /* サイドバーの位置 */ #box2 { float: right; }

蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

メレンゲの(作り方を発見したいという)気持ち


f:id:hachimoto8:20170226022539j:image
 
昨日、真夜中にチョコレートケーキを焼いた。レシピ見ながら作ってて思ったんだけどこのレシピってやつはほんとにえらい。私みたいな普段お菓子を作らない、物覚えの悪い人間でもレシピ通りにやればちゃんとそれなりのものができる。レシピには気が遠くなるほど昔からの人類の知恵が詰まっている。チョコレートケーキを作る工程には「卵白を泡立ててメレンゲを作る」っていうのがあって、私は面倒くさがりなので泡立て器でブイーンとやって済ませた。覚えてないけどかかった時間は10分とか20分とかそんなもんだろう。いやこのメレンゲというのもすごくて、誰かが「卵から卵白だけとってそれをかき混ぜ続けたらふわふわのができるやんけ!」と発見したわけだ。その人に聞いてみたい。なんでそんなことしようと思ったの?暇だったの?しかも昔は泡立て器ないから手でひたすら混ぜるしかない。私が思うにメレンゲを発見した人はその時何か嫌なことなあったんじゃないかと思う。ひとつのことをやり続けると気持ちが落ち着くから。何はともあれ、メレンゲを発見した誰かのおかげで今日私たちはいろんなおいしいお菓子を食べることができる。
 
「なんでそんなことしようと思ったの?」という人類の発見はたくさんある。腐った豆を食べる。実を焙ってひいてお湯で濾して飲む。芋の粉に水と灰を混ぜて煮る。食べ物以外でも。大きな動物の背に乗る。地面を掘って水を出す。毎日星を見続けて自分たちのいる場所を知る。無数の発見が蓄積された現代に私たちは生きている。知恵がきちんと受け継がれるという前提において、人類の黎明期(がいつなのか、今なのか、わからないけど)に生まれるより、後の世に生まれる方がおそらく快適だ。
 
けれども、私はメレンゲや納豆やコーヒーやコンニャクの作り方を発見した人たちのことが少しうらやましい。私だって馬に乗ったり、井戸を掘ったり、天測航法を編み出したりしたかった。自然を利用する大体のことは先人がやり尽くしていて、今人類がやっていることはその応用の応用の応用の応用だ。こうなると技術は細分化されて、一生活者が広く世に根付くような発見をするのは相当難しい。「アリジゴクの幼虫はうんこもオシッコもしない」という話があって、これを覆した研究があるんだけど、そういう定説を覆す話にも憧れる。小学生がその説を夏休みの自由研究で確かめた、なんて聞くと本当にうらやましい。うーらーやーまーしーい。現代であっても興味を突き詰めていれば新発見が得られるかもしれないのはロマンがある。快適な生活でできた余裕でおかしなことを粛々やっていくしかない。私の発見をひとつだけお教えしましょう。唾は口の中で転がし続けると味が変わります。はーあ、だめだだめだ。

物に話しかけられる恐怖について


f:id:hachimoto8:20170223004427j:image
待ってほしい。幻聴の話じゃないから心配しないでほしい。たしかに私は幼少期に想像力が強すぎて少々集団生活が困難だったけれど今日はその話ではない。
こんなことがないだろうか。あなたは昼飯を食べ損ねた午後4時、ラーメン屋のカウンターでひとりラーメンをすする。お腹が減っているのでレンゲを使ってスープまで丁寧に平らげる。若干塩分の摂り過ぎかもしれないが気にしない。減塩は明日からだ。と、かさが減って露出したラーメン鉢の底に、何か書いてあるのをあなたは見て取る。
 
「またのお越しをお待ちしています」
 
あるいは、こんなことがないだろうか。不摂生という名の焼け石に水をかけるべくあなたはコンビニで紙パックの野菜ジュースを購入する。飲みやすくておいしくて、これではどうも体にいいことをした気になれない。ジュースはあっという間になくなり、あなたは心の中で駅前のスポーツジムの無料体験に申し込むことをそっと決意する。ズルズル鳴るまでジュースを飲んでから紙パックの上の耳を開いて、下の耳を開いて、両手に力を入れる。すると底面からこんな文句が現れる。
 
「たたんでくれてありがとう」
 
私はこの手の話しかけてくる商品が苦手だ。なんと言ったらいいのか、なんの気なしに木の皮をめくったら休眠中のカメムシがビッシリ、みたいな気持ち悪さがある。至近距離に息づいているものが実はいたという感覚。特定の行動をとらないと気付けないのも暗号のようで不気味だ。そして何より、物が話しかけてくる時、私は応えることができない。一方的に話しかけられて終了。こんなところにコミュニケーションはない。理屈としてはもちろんわかる。ラーメン屋の主人が、飲料品メーカーの人が、「またのお越しをお待ちしています」「たたんでくれてありがとう」と言っているのだ。けれどこの気持ち悪さはどこにも持っていきようがない。
 
仕事でくたくたになり、甘いものが欲しくなってチェルシーの飴を買った。オフィスで開けてひとつ取り出したら、
 
「リラックスしてね」
 
そう書かれていた。
 
疲れていたせいもあって体の力が抜ける心地がした。
お前もかチェルシー。お前もなのか。小学生の頃は少し大人っぽい、特別な飴として流通していたチェルシー。お前までなれなれしく私に話しかけてくるのか。外袋を見ると、この飴を配って周りの人を和ませろという旨が書いてあった。私が?物に印刷された言葉を?自分の言葉として他人に配る?
 
それで、私が、どうしたのかというと、手近な人に配りまくった。普段なら絶対しなかったと思う、でも疲れてヤケクソだったし、袋いっぱいの言葉の死骸を抱えていられなかった。周りのデスクに放り投げるように配った。誰にどの言葉をあげるか選びもしなかった。
何人かに配ったら不思議と清々しい気持ちになった。「いつもありがとう」は同期へ、「これからもよろしく」は斜向かいの先輩へ、「ENJOY THE DAY」は隣の先輩へ、「笑顔がステキ」は通りすがりのデザイナーさんへ。誰ひとり飴に書かれた言葉を真に受けていなかったけど、飴に一方的に話しかけられたのとも違う、脱力したリアクションだった。言葉は私のものではなかったが、同時に私から発せられていた。
物に話しかけられる気持ち悪さはそこにもうなかった。私が物だった。励ましの言葉を吐き出すガチャガチャだった。
 
 
 
 
よんでくれてありがとう

「ハンス、おかえり、私の息子」


f:id:hachimoto8:20170220162110j:image
最近ずっとハンス王子のことを考えている。ハンス王子っていうのは「アナと雪の女王」(2014年日本公開。2014年!?!?)に出てくるサザンアイルズ王国の第13王子、ハンス・ウェスターガードのことだ。物語のはじめでアナといい感じになってエルサ討伐のリーダーを張り、最終的にはヴィランズとして本性を現しアナのワンパンに沈むあいつである。今さらアナ雪かよって思うだろうけど聞いてほしい。私はディズニーアニメにくわしくなく、子供の頃ピーターパンとかダンボとか大好きでビデオが擦り切れるくらい見たけど、お姫様が出てくる物語はいまいち乗り切れずちゃんとは見てこなかった。ディズニーランドにも物心つくかつかないかの頃に一度行ったきりだ。しかし予防線はともかく私は「アナと雪の女王」をご多分にもれず映画館で見た。面白かった。はっきりいってかなり好きだ。サウンドトラックCDを買って今でも時々iPodで寒い季節に聞いている。
で、ハンス王子である。近頃やつのことがしきりに思い出される。まあはっきり言って好ましい人物ではない、アナの目にはきらきらした青年に映るけど、もみあげが気障に長いし、最初っからなんかちゃらくて胡散臭いし、裏切り方もそのタイミングも最悪だし、もみあげが気障に長いし…。
何よりハンス王子はアナを利用してアレンデールを乗っ取ろうとした。そして彼の目論見はもう少しで成功するところだった。彼にとってはすべて簡単だっただろう。あの「とびら開けて(Love Is An Open Door)」を歌っている最中も、「こんな世間知らずの娘、騙すなんて訳ない」とほくそ笑んでたかもしれない。わかる、彼はたしかにクズだし、人情の欠片もないように見える。
でもハンス王子の言動、ほんとに全部ウソだったのだろうかって私はつい思ってしまう。毎日居場所がなかったことも、状況を変えてくれる誰かを待ち望んでいたことも、サンドイッチが好きなことも(吹替版)、つらかった昨日までにさようならを言いたかったことも。それだけ歌とアニメーションが素晴らしいせいなんだけど、私は今でも「とびら開けて」を聞く度に新鮮な喜びがあるし、これまでの毎日を変えてくれる、変えてあげられる誰かと出会ったかもしれないっていう希望も感じる。
「栄光ある人生は国を統べる者にしか与えられない」という呪いに縛られたハンス、でも13人兄弟の末っ子で、そんな人生を到底歩めっこないハンス。12人の兄を殺すより、1人の世間知らずの娘を殺そうとしたハンス。オラフが何度も「ハンスって誰?」と尋ねるハンス。
ハンス王子は弱い。そして卑怯である。でもその全部が全部、彼の落ち度なのだろうか。とても有名な話だがハンス王子は鏡の性質を与えられたといわれる。ジェニファー・リー監督によれば、ハンス王子はアンデルセンの「雪の女王」に登場する、悪魔の作った鏡を反映したキャラクターなのだという。だから彼は周囲の人々の感情をその時々に体現して、好青年から勇敢な英雄、裏切り者へと次々と態度を翻して平気な顔をしている。ハンス王子のキャラクターは一貫性がないと公開当時批判も浴びたけれど当たり前だ、だって彼は鏡なのだから。この話を聞いた時、私は「そんなことってあるかよ!」と腹を立てた。ハンス王子=鏡説がなかったら私はここまで彼に肩入れしないと思う。それくらい衝撃的だった。
だってとても残酷じゃないだろうか。元々は道具だった物に人格を与えて、物語を推進役を担うだけ担わせて、あんな結末を与えるなんて。ハンス王子は船の暗い檻の中でぐったり倒れ伏して退場する。誰もいない、何も映せない暗闇が彼の求めていた居場所ってことでしょう、それって!ヴィランズって (くわしくないけど) もっと鮮烈に悪くてチャーミングで、自分の仕事をやり通して、最後は爆発四散して死ぬみたいな存在じゃないのか!?ディズニーてめえ!キャラクターの人格を、人生を、なんだと思ってやがる!!
とこのように、私はどうしてもハンス王子をかばってしまう。彼自身の苦しみを描かない物語と作り手に怒りを覚えるし、その物語を何だかんだいって楽しんでいる(この怒りすら込みで!)自分に罪悪感をもつ。なんかもう高度なロボットに生まれてきた意味を考えさせるとかそういう、これは、厳密には倫理問題だと思う。
私は物語冒頭のアナと同じく、ハンス王子にコロッと騙されてるだけなのか?物語の外の事情を物語の批評に持ち込むのはフェアじゃないのか?そうかもしれない。でもそんなの関係ない。これは批評ではなく、もっと言えば取り立てて新鮮味のある感想でもないからだ。ハンス王子に関するもーっと興味深くて、根拠があって、ロジカルな批評はインターネットにいっぱいある。もしあなたがこれを読んで、彼を思い出したなら、ぜひ検索して読んでほしい。
 
最後に、私が勝手に特別なつながりを見出している歌を紹介して終わりにしたいと思う。ドイツ民謡の「小さなハンス」という歌だ。メロディだけは日本でも「ちょうちょ」の名前で広く歌われている。こういう内容だ(念のためにいうと逐語訳ではありません)。
 
小さなハンスは旅に出た。
よく似合う帽子と杖を持って。
涙をこらえて母さんは言った。
「無事でね、早く帰ってきてね」
 
ハンスは7年世界を旅した。
ある日家に帰ろうと思い立った。
たくましいハンス、もう小さくはない。
故郷のみんなは彼に気付くだろうか。
 
帰ったハンスに誰も気づかない。
「この人、誰?」と妹さえも。
母さんが来てすぐこう言った。
「ハンス、おかえり、私の息子」
 
そう、「アナと雪の女王」のハンス王子も、あのあと故郷に帰ったのだ。続編の「アナと雪の女王 エルサのサプライズ」で彼はサザンアイルズ王国のうす暗い馬小屋で馬の世話をしていて、エルサのくしゃみ玉の直撃を食らって馬フンの山に突っ込む。
 
正直、ちょっと笑った。
 
ディズニーてめえ!!!
(ひとまず命が助かってよかったね)
 
ハンス王子は馬を従えて現れたが、今や彼の主人は馬になった。馬飼い、いい仕事じゃんって私は思う。人とあんまり顔を合わせないし。馬もすごく人の顔を見る生き物だっていうし(今のところ馬にはバカにされているみたいだけど)。意外と天職なんじゃないだろうか。でもできれば、罪をつぐなった彼に「ハンス、おかえり」って言ってくれる存在がいればいいなと思う。馬フンに突っ込んだ彼を助け出してくれる人が。「ハンス坊っちゃん、災難だったなあ」とかなんとか、ベテラン馬飼いのおじいさんが頭から水ぶっかけたりしてさ。人間じゃなくたっていい。馬でもサンドイッチでもいいから、ハンスが何かをつかんで自分の人生を始めていることを、心から願わずにはいられない。

「開」と「 」

最近仕事でよく行くビルがある。そこそこ名の知れた企業の本社ビルなだけあってすべてに如才がない。受付の女の人はいつも丁寧で正確だし、ガードマンのおじさんも通り過ぎる人たちに「こんにちはー、こんにちはー」と穏やかに話しかけながら注意深く相手の顔をちらっと確認する。でもそこのエレベーターはちょっとだけ変わっていて、「開」のボタンはあるけど「閉」がない。ないっていうか、ボタンそのものはあるんだけど「閉」という文字が書かれておらず、空白になっている。「開」と「 」というボタンが並んでいるのだ。最初にこのビルを訪れた時は自然に擦り切れたのかなと思った。並外れてせっかちな社員がいて、毎日毎日、爪の伸びた指で「閉」を100回くらい連打して文字を消してしまったのではないか。ところが何度か通ううちに、そのビルにある6基のエレベーター全部で「閉」が空白になっていることに気がついた。なんだかちょっと気持ち悪く思った。「開」「閉」並んでいれば特に印象に残らないエレベーターなのだが、ボタンの空白に「閉」の字を拒絶する誰かの強い意志がこびりついているように感じた。このエレベーターを発注した人がじっくりと検討した上で文字をのせないことに決めたに違いなかった。「ここのエレベーターって閉のボタンに文字がありませんね、なんでですかね」と打ち合わせのあとで訪問相手に尋ねてみた。その人はそういえばそうですねえ、と驚いたみたいに言ってから「押し間違えないようにとか……?」と答えた。なるほどなあ。確かに「開」と「閉」はよく似ている。象形文字の弊害だ。片方を空っぽにしておけば押し間違えて扉の間に人を挟む心配はぐっと少なくなる。思いついた人は頭がいい。頭がいいんだけど、その人のせいで私はこのビルのエレベーターに乗るたび居心地の悪い思いをしている。「閉」、いや「 」を押してもボタンが作用しているといまいち実感できないのだ。ちゃんと早めに閉まるような気もするし、自然に閉まる場合と変わらないような気もする。自分の感覚があまり信頼できない。文字が書かれていないだけのことなのに。それでもそのエレベーターに乗るたびに、私はおまじないのような気分で「 」のボタンを押している。