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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

点取日記 26 逆さまに流れる滝

※この日記では映画『カメラを止めるな!』のネタバレをしています。

 

先日、職場で仲良くなった人と『カメラを止めるな!』を観た。

その人とは飲み会の席で2度隣になっただけな上に、ひと月ほど前に転職して職場を去っていったのだけれど、異様に馬があった。どれくらいかというと「ずっと昔私たちが馬だった頃、同じ群れにいたのでは?マジで」と思うくらい。嬉しいことに向こうもそう感じたらしく、トントン拍子で遊びにいく流れになった。

 

学生時代は放送部や自主制作映画サークルで活動していたと言うので驚いた。私も同じような部活を通ってきたからだ。

彼女は過労でぶっ倒れるレベルで取り組んでいたそうで、その点はあまり似ていないのだけれど、10代のうちに醸成された空気のようなものにお互いが反応したのかもしれない。

 

ともかく、そんな2人が初めて遊びに行くなら『カメラを止めるな!』だということになった。

ストーリーは一切調べていないけれどおそらくゾンビもの、大ヒットしていて周囲の信頼できる人たちもおおむね好意的な感想を述べており、低予算のインディペンデント映画。これ以上ないほどぴったりだ。

 

梅田まで出たとはいえ平日の昼間なのに劇場はほぼ埋まっていた。

ここから先は容赦なくネタバレをしているので、まだ見ていない人は引き返してほしい。

 

 

 

カメラを止めるな!』、とても良かった。

何しろ観客のコントロールが上手く、まんまとイラッとしたりほろっとしたりしてしまって悔しい。

前半の違和感の放り込み方が絶妙で、「今の間おかしくない?」「なんか雑じゃない?」「インディペンデントだし仕方ないのかな?」と思ったところが後からことごとく生きてくるので笑いっぱなしだった。

 

やっぱり大好きなのは最後のクレーン撮影のシーン。あんなことされて面白くないはずない。アクションの大技感、役者やスタッフなどの役割を超えた共同作業、父娘の絆の回復、色んな側面のクライマックスがもう全部乗っけなのだ。あれ自体が映画製作のメタファーでしかも見た目的には人間とゾンビの連携プレー。最高。組体操嫌いだけど。

 

さわやかな気分で席を立ち、劇場のロビーでエレベーターを待っている間、ある叫びが頭の中をぐるぐる回っていた。すなわち、

 

「映画は!人が!!作ってるんだよ!!!」

 

セリフとしては出てこなかったけれど鑑賞中ずーっとそれが聞こえていた。

特に揺れまくる手持ちカメラから。レンズに飛び散った血しぶきを、にゅっと出てきた手が拭き取る場面。一度地面に横倒しになり、ふたたび息を吹き返す場面。

私たちは普段カメラを構えているカメラマンの存在を意識しない。むしろ背後霊のように存在感を消す技能がカメラマンには求められるのではないか、と素人ながら予想するのだけど、映画の前半ではその存在を始終感じていた。

 

この映画の本編にまつわるカメラマンは3つの時空に存在する。

劇中劇のワンカットドラマでアルコール依存症気味の役者が演じるカメラマン。劇中劇を撮る腰痛持ち&ダサかっこいいカメラマンの師弟。そして本編では映らない、私たちと同じ世界にいるカメラマンだ。

本物のカメラマンという言い方はこの映画では使いたくない。それくらい劇中のカメラマンたちも(他の制作スタッフも)不自由な制約の中で必死に頑張っていたと思う。

 

そして本編後のEDでメイキング映像が流れた時、不覚にもぐっときてしまった。

本編では映らなかった現実世界のカメラマンとスタッフの姿が映っていた。みんな劇中の彼らよりこなれていて、くたびれている。そして何よりこのメイキング映像を撮っている、見えない第四のカメラマンがいる。いないけどそこにいるのだ。

 

何かを撮ることは基本的に撮る人が画面から消えることを意味する。自撮りをしているのでなければ、その姿を知る術はない。しかし彼、彼女その人の視点を私たちは追体験している。あのメイキング映像にはそれがくっきり映っていた。機材の重ささえ感じたような気がした。

 

映画は人が作ってるんだよ。これまで観てきた映画だってひとつ残らず同じだ。今となってはCGがしょぼいけど子供の頃から大好きなあの映画も、製作費ン百億円という超人的なヒーローが活躍するあの映画も、話題になってた割に「バカヤロー!1,800円返せ」と思ったあの映画も。みんな人が作ったのだ。

 

私は劇場が明るくなるまで席を立たない派だけれど、大作映画のEDで流れる人名の膨大さにはいつも驚いてしまうし、驚いたあとは退屈してしまう。メインテーマの長い長いアレンジが鳴り止み、お尻の痛みに耐えつつやれやれやっと終わりか、と思ったらラップ調の歌が始まってガクッときたりする。人名のリストは下から下からせり上がってきて終わらない。まるで滝が逆さまに流れているみたいだ。

 

カメラを止めるな!』の滝はずいぶん小さかった。でも「映画は人が作ってるんだよ」、インディペンデントも超大作も。そのことはこの映画の方が、手触りとしてずっとよく思い出せた。

 

映画館を出てから、カフェに入って感想を話しまくった。仕事や家族のこと、コンプレックスのこと、ぶっ続けで喋り続け、気がついたら3時間近く経っていた。

新しい友だちと『カメラを止めるな!』が観られて、よかったな。

 


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「ガイコツが呼んでいるぞ 2点」

 

ゾンビが出る映画になかなかふさわしい点取占いが出た。

ガイコツに呼ばれたくないなあ、私はいいんですけど、事務所的にちょっと。よろしくでーす。

さくらももこの発明(私たちはままならない)

漫画家のさくらももこが亡くなった。まだ53歳だったという、その若さにも驚いたし、その若さで亡くなってしまった事実が悲しい。

 

物心ついた頃から『ちびまる子ちゃん』のアニメは当たり前にそこにあった。

第1期の放映開始は1990年。私は当時2歳で、まる子という女の子や、彼女の家族やクラスメイトたちはまったく自然に、画面越しの友人であった。

 

アニメを除いて私にとってのさくらももこ作品といえば、『コジコジ』であり『永沢君』であり、『もものかんづめ』『さるのこしかけ』『たいのおかしら』のエッセイ群だ。

ちびまる子ちゃん』の原作は小学校の友達に借りて一通り読んだけれど、上記の作品たちは子供の頃に何度も読み返した。ずいぶんぼんやりとした記憶になってしまった今も、血肉になっている確信がある。

 

私は心底熱心なファンとは言い難い。成長期にたまたま、いくつかの作品が空気みたいにそこにあった。いつの間にか彼女から受け取ったメッセージがあって、それは「私たちはままならない」ということだと思う。

 

私たちはままならないのだ。根本的に、未来永劫に。

ほしいおもちゃは手に入らない。カッコつけるとろくなことがない。夏休みは8月31日で終わるし、宿題はこれからだ。暴飲暴食は腹痛の素。友達を裏切った罪悪感で死にそう、おまけに手ひどいバチが当たる。あの子の家はお金持ちだけど、うちはそうでもないみたい。

 

これらの多くは身から出た錆、もしくはこの世の理不尽だ。床に突っ伏して足をバタつかせ、どれだけみっともなく泣こうが喚こうがどうにもならない。まる子はごくふつうの、つまり浅薄で欲にまみれたガキんちょで(最近のアニメではどうか知りませんが)、色んな現実がままならない小学生を生きている。

 

その悶絶ぶりを毎週テレビで見たからって聞き分けがよくなるわけでもなかった。ただ自分が愚かな振る舞いをして痛い目にあった時、赤いスカートの女の子を身近に感じた。

 

中学生になった『永沢君』の、圧倒的なイケてなさ。玉ねぎ頭にかぶる異様に小さな学生帽は彼の思春期すべてを象徴していて最高だ。

現実と自意識の狭間を迷走してラジオに投稿したり、友人と罵り合ったり、タバコを吸ってみたりする彼は、今でこそかわいいとも思えるけれど、同じくかなりイケてない中学生時代を過ごした私は共感と焦燥感のあまり、しばらく読み返せなくなったものだった。

 

あるいはメルヘンの国が舞台の『コジコジ』ですら、コジコジが“ままなっている”だけなのだ。他のキャラクターたちは親からのプレッシャーやメルヘンなキャラクターゆえに付与された珍妙な性質などに悩み、存在に関する疑問を抱えて生きている。世界が変わってもその世界のままならなさが立ち替わるだけで、私たちは決して自由にならない。

 

自業自得でひどい目に遭う私たちにもふいに美しい瞬間が訪れるとくり返し描いてくれたのもさくらももこ作品だった。素敵な人とつかの間友達になること、美しい風景を見ること、仔猫に出会い、友達と心が通じたと思うこと。

しかし格好のつかないエピソードがやはり大半を占めていて、しかもけっこう残酷だ。共感性羞恥というやつ、私はあまり感じないのだが、さくらももこ作品の登場人物が気まずい目に合う場面で目をそらしてしまう人は多いんじゃないだろうか。

ただ不思議なことに、この残酷な漫画たちは私たちのままならなさを容赦なく照射すると同時に、処方箋をくれていたように思う。

 

それはたとえば半笑いで顔面蒼白になった顔のタテ線や白目。あるいは「友蔵心の俳句」や「トホホ」「冗談じゃないよ、あたしゃ…」といった特徴的なセリフ、独特のナレーション。

さくらももこが発明し、国民的アニメになった『ちびまる子ちゃん』が広めた共通言語だ。その記号のもとではすべてが一旦ギャグになる。ナンセンスになる。

 

友達と遊びに行った先で予定がことごとくずれ、「どうすんの、これ?」という空気になった時、誰かがキートン山田の声真似で「後半へ、つづく」と茶化して「ま、いいか」となったこと。

タイの空港で飛行機を逃す大失態を犯したが、ひとまず「トホホ」と頭で唱えたらなんとなく心が落ち着いたこと。

 

自分に小さな災いが降り掛かった時、悲壮感がこみ上げる前に「なんだこれ、『ちびまる子ちゃん』かよ」とツッコミを入れ、距離をとる。しばし顔にタテ線を入れる。そして現実に戻ったら、ほとんど打つ手がないとは知りながらひとまずできることをする。たいてい事態は思ってるよりなんとかなる。大丈夫。

そういうことにかなり助けられてきたし、これからも助けられるだろう。

 

明日も仕事だからさっさと寝たかったのに、こんな文章を書いていたらもう5時だ。トホホ、冗談じゃないよ。

点取日記 25 風呂と水風呂

少し間が空いた。ダラダラ過ごすお盆休みを満喫していたら、休み明けの山積した仕事に巻き込まれ、さながらアツアツのお風呂から急に水風呂へざんぶと放り込まれたごとくしばらく心臓が止まっていたのだ。

 

仕事はまだ片付いていないけれど、考えても気が滅入るので今日は本物の風呂と水風呂の話。

 

やっと自転車を買った。引っ越してからたっぷり1ヶ月かかった。
自転車屋になかなか行けなかったり、欲しい色を取り寄せたり、お盆休みにぶつかったりしてずるずると納品が伸びていたのだ。
特に高級ではないけれど一応クロスバイク。漕ぐとぐいぐい前に進んで気持ちがいい。

 

自転車を受け取って店を出たら、まるまる1ヶ月を徒歩で過ごしたストレスがなくなった解放感からか、野に放たれた獣みたいになってしまい、用もないのに街を走り回った。
遠くのホームセンターへ行ってみたり、公園を見つけてみたり、かき氷を食べたり、なかなか夏休みっぽい。
満足するまで走って帰ってきたらもう夕方だった。

 

自転車なんてしばらく漕がなかったので体の変なところが疲れた。汗でべとべとのまま布団に突っ伏していたがハッと思いついた。銭湯行こう。

 

週1くらいで銭湯に行くので、最近銭湯セットを作ったのだ。
このツイートの真似をした。

 

 

 

シャンプー類のこまめな詰替えとスイムタオルで荷物を極限まで減らすというもので、すごく役に立っている。
ふかふかのタオルに包まれる気持ちよさはスイムタオルにはないけれど、とにかくかさばらないのでありがたい。

 

私は今、500円玉を握って銭湯セットを手に取ればいつでも銭湯に行ける身分なのだ。自転車もあるし。

 

銭湯では水風呂が好きだ。お風呂とかサウナとかで体を温めたあとに入る水風呂が好き。

しかし1年前まで水風呂なんて見向きもしなかった。入るようになったのはスポーツジムに通うようになったからで、引っ越しを機にジムは退会してしまったが、水風呂の楽しみだけはしっかりと残った。

 

お湯に1分半つかるのと、水風呂に30秒~1分つかるのを交互に6セットほど繰り返す。
熱い湯から水に移った時に肌がキリキリと冷えていくのが好きだし、水から湯に移った時の、熱いか冷たいか一瞬わからなくなる感じも好きだ。

 

効果のほどは、実はよくわからない。温冷浴は色んなところですすめている人がいて、自律神経が整うとか肌によいとか疲労回復によいとか言われている。ジムの浴場の壁には「皮膚が強くなり、風邪などひきにくくなる」とあったと記憶している。

 

言われてみるとそんな気もするが、私はただ気持ちがよいのでやっている。皮膚が熱と冷水で混乱するのが楽しくて笑えてくるのだ。分類としてはお好み焼き屋の鉄板にお冷の水を1滴落として蒸発するのを眺めるような楽しみに近いと思う。
あとは、運動後にやると急激にお腹が減ってきて、「帰ってごはん食べよ!!!」と思うのもいいところかもしれない。実際ごはんはとてもおいしい。

 

ただひとつ、二度と味わえないだろうなという水風呂がある。ジムで初めて入った日の水風呂だ。
温冷浴がいいと聞いて挑戦することにし、十分温まってから足先を水風呂につけたらしびれるほど冷たかった。

 

これは無理だろう。そう思ったのだが、とにかくやってみようと無理やり脚を入れ、腰まで入ったところで小学校のプールの時間を思い出し、心臓にショックを与えてはいけないと、申し訳程度にぱしゃぱしゃ体に水をかけ、なんとか首までつかった。辺りに人がいるのでやらなかったが、無人だったら「ギャーッ」と叫んだと思う。

そこでなんとか30秒。事前に読んだ記事には1分と書かれていたがとても無理で、たまらず水から出た。

 

避難するような気持ちでお湯に戻ると、ウワウワウワッこれがまたすごい、湯船はさっきまで安寧の場所だったのになんと言ったらいいのだろう。全身の毛穴が開いて熱が飛び込んでくるというか、豆電球くらいなら光らせられそうというか、蟻の巣に溶けたアルミを……。
あっ、あれに似ている。映画の『デッドプール』で主人公のウェイド・ウィルソンが非人道的な実験にもだえ苦しみながら、特殊能力を目覚めさせるシーン。

 

立ちくらみの時に見えるモヤが視界に炸裂して、心臓が跳ね回っていた。体は異常事態に混乱し、何種類もの入り組んだアラートを同時に発している。
実際その時、体にはあまりよくないことが起こっていたかもしれない。湯船から上がるとくらくら目眩がしたし、背筋を伸ばして立っていられなくなったから。

 

でも懲りずにそのあとも温冷浴を習慣にしていたら、いつの間にか適度な気持ちよさで落ち着くようになった。体の方で危険ではないと学習したようだ。
あれほど強烈な反応がもはや起こらないのは少し残念でもある。こう書くと違法薬物の体験記みたいだな。でも心臓に自信がある人はやってみてほしい。特殊能力が目覚めそうになるから。

 


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「みんなで一緒に歌いましょう 8点」

 

久々の点取占いは8点となかなかの高得点。
先生かな?後方にいる人が着物を着ているのは、歌手の表現だろうか。
みんなで一緒に歌いましょう、ルルル。

点取日記 24 お菓子の発生源

引っ越す前に「実家から引っ越したら、太りやすなるから気いつけや」と職場のある人に言われた。

インスタント麺やスナック菓子を思う様食べても見張る人がいないので、体重管理が難しいという意味だ。

しかし時々行く銭湯で測っているが今のところそういう傾向はなく、むしろ体重は少し落ちた。

 

ひとつには半同居人の自炊能力がやたらに高く、インスタント麺の出番が今のところないのだ。

もしくは、ジム通いでわずかについてきていた筋肉が落ちているのかもしれない。これは嫌だから近日中に部屋でできる筋トレメニューを作るつもりでいる。

しかし一番にはやはり、お菓子を食べる量が減ったのだと思う。

 

実家には猫くらいの大きさの菓子箱があって、その時々にいろんなお菓子が補充されていた。おかきや柿の種の小分けパックの類、おせんべいやビスケット、ドライフルーツ。冷蔵庫にはチョコレート菓子が入っていて、小腹がすくとちょくちょく食べていた。

両親が買い出しの時に買ってくることもあったし自分で買って入れておくこともあった。

 

そうしてお菓子を食べるのは我が家の日常の一部になっていたのだが、引っ越したらお菓子を食べるのがずいぶん控えめになったのだ。

もらいもののお菓子や見切り品の果物を大事に少量食べてお茶を飲むとそれで満足してしまう。あの小腹はどこへ行ったんだろうか。

本腰を入れて文章を書く時だけは脳みそに大量の糖分が必要で、飴やグミを職場で摂っている。(ルーティーンと化しているけど実際どの程度効果があるのかは知らない)

 

お盆休みはおおむねだらだら過ごし、一日だけ実家を訪れた。弟夫婦の結婚一周年祝いと私の追い出し会を兼ねた集まりだ。

料理の準備や何やらをして一息つこうと菓子箱を開けたら驚いた。引っ越して半月も経つのに、お菓子の顔ぶれが変わっていないのである。

 

「お菓子ぜんぜん減ってへんやん」と聞くと、母は「そうやねん」と言った。

いわく、以前は買い出しの時に「(私)が食べるだろう」という気持ちが働いて、よくお菓子を買っていたのだそうだ。私が家を出たのでお菓子を買うモチベーションがなくなったのだという。

私は私で「うちの両親はお菓子が好きだなあ」と思っていて、自分が買う時は両親の好みそうなお菓子を無意識に選んでいたし自分もそれを食べていた。お菓子がないからといって、どうしてもあのスナックが食べたい、というような衝動はない。

 

両者が離れた今、どちらもお菓子を食べなくなったわけだ。とすると長らく我が家の猫ほどの体積を占めていたこの菓子箱とは、一体なんだったのだろう。

 


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「大きなこえでどなってやろうか 5点」

 

私は声に力がなく、居酒屋で店員さんを呼ぶにも苦労するので、大きな声を出せる人というのはそれだけで憧れる。

空気をつんざくような声ってあるでしょう、私はその反対で、空気の壁にへにゃんと押し返されてしまうようなのだ。

その点文字は間違いなく伝わって便利だなあ。何が違うのでしょうねえ。へにゃん。