/* 本文の位置 */ #main { float: left; } /* サイドバーの位置 */ #box2 { float: right; }

蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

クリスマス

一昨日(もう一昨々日だが)朝早くから仕事に出かけて午前中ダーッと労働し、父にあげるプレゼントが決まっていなかったので奈良の街をぐるぐる歩き回り、夕方実家に戻って母とめちゃめちゃに喋り倒し、姪っ子誕生日パーティ料理の仕込みを手伝って翌日もウオーッと下ごしらえやセッティングをして弟一家が合流して食べて食べて贈って贈られて遊んで京都に帰って同居人とケーキを食べて……と、とても賑やかに過ごした。本当に久々だ。嵐みたいだったし文化祭みたいだった。

二歳になった姪っ子の語彙が一ヶ月前と比べても爆発的に増えていて驚いた。遊びながら食べながら、独り言なのか周囲への語りかけなのか判然としない言葉をぽろぽろとこぼしつづけている。おもしろいことに、それは目の前のものへの反応が多いけれども、今・ここと結びついていないことも度々ある。たとえば絵本に描かれたダンプカーを見て「壊れた」と言うのだけれど、それは絵から連想された「うちにあるおもちゃのダンプカーが壊れた」という記憶の反芻であったりする。また、食事をしながら脈絡なく「トーマスいたねー」(このあいだ遊びに行った鉄道博物館で、実物大のトーマスに会ったね)と言ったり、お気に入りの映画である『崖の上のポニョ』の台詞を口にしたりする。それらの記憶は今・ここと関係なく浮かんできやすい記憶なのだと思う(本人にしか分からない・本人にも分からないトリガーがあるのかもしれない)。

私たち大人は社会化されているので、頭に浮かんだことすべてを言葉に出しはしない。心の揺れ、というのか、ニューロンの発火を無視する訓練ができているのだ。まあ、私は大人の中では訓練できていない方で、散歩しながら思い出し笑いで「はははっ!」と笑ったり語感が気持ちいいだけの無意味な文句を唱えたり、空想に没入しすぎて涙ぐんだりしているけど。安心できる人の前だと特にひどくて二歳児とあんまり変わらない。とにかく姪っ子のつぶやきを聴いていると、誰もが持っている縦横無尽な心の動きが垣間見えるようでおもしろかった。

突拍子もなく意味も不明瞭なつぶやきを連発する小さな人の前に立つと、こちらは自然「今何を伝えようとしているのかな?」「何を思い出したのかな?」という推論を働かせつづけるようになる。自分は黙っているか、あるいは手がかりを掘り当てるための問いかけをして、相手の声や呼吸に波長を合わせるかのように自分をゆだねる。この能動的な受容の姿勢は、なんだかすごく不思議だった。距離感を保った大人同士の会話とは違っている。親しい人や大切な人の話を聞く時の感覚を、濃く濃く凝縮したような感じがする。というか順番が逆で、受容的な姿勢で臨んだ相手に親しさを覚えるようにできていて、小さな子どもが受容的な姿勢を要請するパワーを持っているっていうことかも。こうやって書くとすごく普通だな。

岡田美智男さんの開発する「弱いロボット」を思い出した。ゴミを発見して接近できるが拾い上げられはしないロボットを配置すると、周囲の人が親切心を刺激されてゴミを捨てる行動をとる、という話。

 

盛りだくさんの二日間だったが、さらに大きな出来事があった。バゴプラさんが新たなSF書籍レーベル「Kaguya Books」の立ち上げを発表し、その刊行ラインナップの一つとして、私蜂本が長編を書かせていただくことになりました。ヒュー。このヒューには、驚き、嬉しさ、意気込み、恐れなどが含まれています。第一回のブンゲイファイトクラブに出場してからというもの、突拍子もない嬉しいことが次々にやってくる。なんだか分からないけれど、ものすごくラッキーなのだということだけは、分かります。がんばりつつがんばりすぎず、何より楽しく書き上げたいです。

Kaguya Books」では、「かぐやSFコンテスト」の受賞者や最終候補者による書き下ろしアンソロジーや、大阪SFアンソロジー&京都SFアンソロジーも刊行予定です。詳しくは下記記事で。

virtualgorillaplus.com

 

いつもながら大変丁寧にご紹介いただいてありがとうございます。よろしくお願いします。