東 直子・穂村弘 著『しびれる短歌』(ちくまプリマー新書)を読み終わった。
恋、食べ物、家族、動物、時間、お金、固有名詞、トリッキーな短歌などのテーマ別にたくさんの引用歌を挙げながら2人の歌人が対談していく構成になっている。
現代、近代の口語的な短歌が大部分を占めていて、会話を追っていく形なのでとても読みやすかった。2人が丁寧に解釈してくれると、読む方もつられて読み解きの解像度がグッと上がったような気になれる。
Twitterでフォローしている人の短歌がこの中の一首に採用されたというのと、両著者の短歌が以前から好きだったのでほぼ中身を見ずに買ったけれどいい読み物だった。
どのテーマも性差や時代感覚が反映されていて興味深いが、実感を伴って読めるのはやはり家族の短歌だ。
半年も便座を除菌していない家族の尻は美しいから 蓮沼・L・茂木
父の小皿にたけのこの根元私のに穂先を多く母が盛りたる 中山雪
わかりやすく面白いと思ったのはこの2首。後者は食卓で母親が無意識に子供の方を優遇していて、父親もそれを受け入れている状況だ。穂村弘は「十代だとまだこれを、おや? と感じないかもね。二十何歳かになっていて、なんか、変だなと気がついて、このことがちょっと気味悪いと思っている。そんな感じね」と述べていて、この感じわかるな、と思った。
数十年にわたって営まれる共同体である家族は、歳月とともに変化しているはずなのに時々驚くほど古い習慣が残っていることがある。それを内側から自覚するのはとてもむずかしい。
この間道を歩きながら実家の食卓のことを思い出していた。我が家の席順は下記のようになっていて、30年来変わっていない。食卓は途中で一度変わったが、どちらも木製で長方形のテーブルだった。
弟 母
食卓
私 父
子供時代を過ごしたマンションでもこの配置だったし、その後引っ越した別のマンションでもそれは踏襲された。弟が先に家を出て、空いたところには猫が座るようになり、現在は私も家を出ているが、もし家族4人が実家に集合する機会があれば同じ席に座るはずだ。
なぜこの席順になったのか、という話である。
夫婦2人だけの頃は差し向かいか横並びだっただろう。そこに私が生まれて、やがて物を食べられるようになる。助けが必要なので置き場所は自然と母の隣に決まる。父の席はその向かいだ。
次に弟が生まれて物を食べるようになると、同じく場所は母の隣。多少自力で食べられるがまだ監督の必要な私は場所をずれて、弟の向かい側、父の隣に収まる。
こうして子供が0~2歳の間に決まった席順が、以来、引っ越しという大きな環境変化を経てもずっと守られてきたのではないか、と唐突に思い当たったのだ。
なんだか古地図で川の跡をたどるような話だ。
たぶんこういった話はどこの家庭にもあって、5人兄弟だとか一人っ子だとか、3世代同居だとかで類型があるのではないかと思う。ちょっと気になる。
同じような話がもうひとつあって、それは中学生頃の出来事だ。
ある日母が、「トイレ行く時、なんでいちいち報告すんの」と言った。不意をつかれて戸惑ったのだが、たしかに直前私は「ちょっとトイレ行ってくる」と母に声をかけたし、思い返せばよくそうしていた。リビングでそれぞれに過ごしていたから言う必要はどこにもないのに、完全に無意識だった。
母と理由を話し合ってひとつの仮説が出た。つまりトイレトレーニングをするような小さい頃、親に事前に宣言するようしつけられていて、その習慣がどういうわけかこの年齢になるまで抜けなかったのではないか。
2人でゲラゲラ笑ったあと、母が「(弟)もこれ言うねん」と言って、これにはちょっとゾッとした。
以降その習慣は姉弟からぱったり途絶えたのだが、同じようなものがまだまだ残っている気がする。それが親の晩年とか、自分の死に際に現れたらどうしよう。
「ライオンの子供を飼ってみたい 8点」
点取り占いが5パック中の3パック目に突入した。
飼って“みたい”って願望を述べているだけなのに8点という高得点なあたりがいかにも点取り占いっぽい。
ライオン、子供のうちはいいけど大きくなったら大変だぞ。