冬はふさぎの虫
人には二種類いて、冬が好きな人と冬が嫌いな人がいる。私は圧倒的に後者で、毎年「どうして人間には冬眠という機能が備わらなかったのだろう」と思いながらひたすら耐えている。冬が好きな人はたいてい「冬の朝のきりっとした空気の中を歩くのが好き」などと言う。私にはぜんぜんわからない。冬の朝なんて冬の夜の次に最悪でとにかく寒い、歯の根があわない、全身震えて涙が出てくるし誰かと出くわしても「いややははは、きょおおおも寒いですねへへへ」という感じになっていつも以上に会話が成りたたない。それから何といってもつまらないのが気に入らない。どうつまらないか。風景がつまらない。ほとんどの木は丸坊主になって骨みたいな枝がさびしい。はっきりしない曇りの日ばかり続いていらいらする。私はうつむいて歩く癖があるけれど、冬は虫の類が見られなくなるので、うつむく甲斐があまりない。
冬にはもっと実害がある。憂鬱になることだ。6年ほど前がいちばんひどくて、その時はひと冬ずうっと寝ていた。とにかく眠くて仕方がなく、毎日10時間12時間と眠った。寝ている間も昔の嫌なこと悲しいことがついさっきの出来事みたいに押し寄せてくるので落ち込むのに忙しかった。当然、大学の成績はガタ落ちし、サークルにも顔を出さなくなったのでそろそろ社会的に死ぬかなという頃、冬が終わって春が来てけろっと治った。数年後に冬季うつ病とか季節性情動障害といった言葉を知ってなるほどねと思った。医者にかかったわけではない。そもそも医者にかかるほど重篤でもないけれど、確かに私には傾向がある。その年の憂鬱ぜんぶが冬季うつ病のせいではなかったかもしれないが、とにかくそれから冬にはとくべつ気を配るようにしている。
ここ最近はだいぶん調子がいい。職についたので強制的に規則正しい生活をするようになったし、せめて自由な時間には楽しいことをしようと必死になるから、眠り沼に沈んで憂鬱が憂鬱を呼ぶパターンにはまりにくい。毎冬1日くらいは憂鬱に捕まって寝る時しくしく泣いたりもするが、恒例行事としてやり過ごせるようになってきた。注意すべきシグナルも自分なりに見えてきて、私の場合、異様に童謡が聞きたくなったり、ついお菓子を食べすぎたり、ネットで心理学用語を調べて性格診断テストで一喜一憂するようになったりしたら要注意だ。
狩猟を始めた(始めようと努力している)こともうまく影響している。有害駆除を除いて基本的に登録狩猟は、冬にしかできない趣味だ。獲物を探して歩くようになり、冬だって植物や動物がそれなりに生活している、ということが認識できるようになってきた。「冬がつまらない問題」、解決である。
思い返すと、つらかった数年前は襲ってくる悲しみを本当に悲しいと思っていたからつらかったのだ。嫌な記憶が波のようにやってくるとそれを頭からかぶってバカ正直に悲しんでいた。今は、梅雨の時期はひざが痛いなあ、という感覚で「ああまたお脳が勝手に悲しんどるわい」と受け取るようになったのでずいぶん楽だ。これもやり過ぎるとこの先本当につらいときに気づけない、なんてことがありそうだが、冬季うつ病への立ち向かい方としてはそんなにずれていないと思う。
それを考えると昔の人はえらくて、憂鬱のことを「ふさぎの虫」といった。私がふさぎの虫という言葉を知ったのは小学校の頃、おそらく6歳ごろだろうか。なぜ言葉を覚えたての子供がそんな単語を知っていたかというと、佐々木マキの「たわごと師たち」という絵本に出てきたからだ。
「たわごと師たち」はエドワード・リアのナンセンス詩を佐々木マキが翻訳し、漫画化したもので、福音館書店の「おおきなポケット」という児童雑誌に連載されていた。大人になった今読み返しても毒気の強い不条理な世界が怖く面白く、よくこんな連載を児童向けにやったな、やっぱり初期「おおきなポケット」は尖りまくりで最高の雑誌だなと思うのだけれど(絵本の裏表紙を見ると「小学1~2年生から」と書いてあり仰天する)、とにかく佐々木マキは幼稚園児も読むような雑誌に「ふさぎの虫」という言葉をぶち込んできたのである。それはこんな詩だ。
ある老人はふさぎの虫にとりつかれウサギを一羽買ってきたある晴れた日にさんざんあちこち乗りまわしやっと 少しは気が晴れた
先ほど、リアのナンセンス詩を佐々木マキが翻訳し漫画化したと述べたが、実際にはかなり佐々木マキの解釈というか、補完が入っている。この詩では「ウサギを一羽買ってきた」あとに老人が白衣を着て蒸留装置のようなもので薬を作るコマが入り、「ある晴れた日に」のコマでウサギに薬を注射している。最後のコマでは、老人が薬の作用で巨大になったウサギを乗りまわしていることがわかる。
詩だけ読んでも意味がわからない(韻を踏むナンセンス詩なので当たり前といえば当たり前)原作に、子供でも没頭できるよう佐々木マキの漫画が橋渡しの役割をしていて、とても魅力のある絵本だ。これを読んで育ったらひねくれた子供になることうけあいである。
それはそれとして、ふさぎの虫だ。老人はふさぎの虫にとりつかれた。小さい頃の私はこの詩を読んで、文字どおりふさぎの虫という虫がいるなんてことは思わなかった。自分の意志に関係なくやってくる災害のようなものだと何となくわかった。それなのに自分が冬、落ち込むようになってからは、どうにも悲しさと精神が分かちがたいものだと思ってしまった。しかし結局、老人はある晴れた日にウサギを乗りまわさなければ、気が晴れなかったのだ。