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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

「文化系」なんて名乗ってすみませんでした。みんぱくに行ってきた

国立民族学博物館に行ってきた。

www.minpaku.ac.jp

 

万博記念公園のなかにある博物館で、世界中の人々の衣食住や信仰、娯楽、要するに「生活文化のすべて」に関する道具を膨大な数展示してある。

 

この博物館を私は、かなりかっこいい部類に入ると思っている。

 

・水中でガラガラ鳴らすと魚の群れっぽい音が出せる木の実の殻でできた道具と、音に勘違いして寄ってきたサメの頭をガンガン殴るための棒のセット

 

とか、

 

・殴られたらめちゃくちゃ痛そうな上、神さま的な紋様が彫られており見るだけで土下座したくなる東南アジアの戦闘用棍棒

 

とか、

 

・違法薬物をキメている時に貝と骨と布と羽と石と染料で作ったとしか思えないとにかくでかいオセアニアの祭礼用の仮面

 

とか、

 

・アフリカで地元の人が観光客向けに作ってるハイネケンの空き缶をつなぎ合わせたアタッシュケース

 

とか、

 

・パン屋で見慣れた奴らかと思いきやでかいのや変な形のが混じっていて熱帯雨林の昆虫を見た時みたいなゾクゾク感があるヨーロッパのパンの群れ

 

みたいなものが、本当にたくさん並んでいる。そしてそれらは芸術作品でもなんでもなく、すべてが生活のために作られている。世界は広すぎるしこれまでに生きて死んだ人間の数って多すぎる、「人間の生活!」と思ってくらくらしてしまう。

 

今回とりわけ”当てられた”のは装身具だった。人類はそりゃもう石器時代の頃からアクセサリーや衣服で身を飾ってきたらしい。石製の極小ビーズ、レリーフのある金属の板、複雑な幾何学模様でできた織物。

 

現代と違って便利な機械もない時代だ。ビーズひとつ作るのに、どれだけの時間がかかるんだろう?たとえばきれいな貝を磨いて小さく切り出して形を整えて穴を開けて糸を通して…これでようやく腕輪の何百分の一。食べ物を探したり子どもを育てたりもしなくちゃいけないなかでこれをやるのだ。人間の「装う」ということに対する貪欲さに驚いた。

 

私はどうにも着飾るということが不得手で、着飾るといっても日常レベルの服やなんかですでにつまずきを感じている。いつまで経っても何を着たらいいのかよくわからない。アクセサリーもえいっと思い切らないと付けられない。そして鳥とか虫とか好きなモチーフでしかアクセサリーを選べないので、同じような物ばかり増えていく。

 

まったく体育会系ではない自分のことを「文化系」だと思っていたけど、とんでもない思い上がりだったのだ。人類が私のようなタイプだけで占められていたら、今でも人類は色味のない藁を編んだ粗末な貫頭衣などを着ていると思う。踊らない。歌わない。サイケデリックな祭りを作らない。食べ物にはそこそこ貪欲なので、まあまあ豊かな食文化と、あとは神話くらいは作れるかもしれない。

 

人類は無数にいて、そしていろんな奴が生活を積み重ねてきて、私はそれら無数の生活の、ほんの小さな小さな塵みたいなものなんだと思った。

 

時々ものすごいパワーに突き動かされて妙ちきりんな建物を建てたり、ヘタウマなオブジェを作ってネットを騒がせる人がいる。地方の小さな祭りに命をかけていて学校をさぼる中学生もいる。そういう人たちが無数で多様な文化を発展させてきたのかもしれないなあ。

 

国立民族学博物館に行ったのは今年で二度目だ。まだ展示の半分しか見られていない。東南アジアオセアニア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、西アジア。ここまでだけで疲れ果ててしまい、また次回となった。大人は420円で入館できるし、生活に疲れたら何回でも見に来よう。