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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

巨大刷毛

昼を食べに出たついでにピクミンで地図を塗りつぶす散歩をやった。どういうことかと言うと、ピクミンブルームではアプリ内でけっこう細かい地図を表示させることができて、最初は真っ白だけれども歩いたところが緑色に塗られていくのだ。始めてひと月近くも経つと当然家の周りはほぼ緑に染まる。しかし最大限に拡大してみると意外に塗り残しが多い。よく使う道は決まっているし、近かろうが遠かろうが人は用事のないところへは行かない。その用事のない場所にあえて行ってみようという趣旨の散歩である。

自分を左右数メートルの幅がある巨大な刷毛に見立てて街を歩いていく、いや塗っていく。マーキング的な楽しみがある。と言っても他人と競うわけではなく自己完結している。歩いてみるとほとんどが住宅街で普段通らないのも納得だったが、それでもいい感じの雑貨屋さんを見つけるなど収穫もあった。白いエリアをどう歩けば効率的か、一筆書きクイズ的な判断が試される。結局1時間半くらいみっちり散歩してしまった。帰り道、不思議に白じらと塗り残されている一本道があるのでなんだろうと寄ってみたら、信号を渡って一旦逆方向に引き返さないとアクセスできない道で、こりゃこんなゲームでもしてなきゃ一生歩かないわと思った。

 

今日はBFC3の決勝結果発表の日だった。優勝は左沢森さん、準優勝は坂崎かおるさん。本戦に出ていない観客の身はずいぶん気楽だ。それでも発表からしばらくは「そうか……」と思ってパソコンの前でしーん、としていた。納得と驚きが半々の気持ちで、何が「そうか」なのかは自分でもよくわからない。ありえないことだけど「二人とも優勝すると思っていた」というのが実感に近いのかも。お疲れさまでした&おめでとうございます。

不完全な握手

折坂悠太のライブを見に行ったらその日の夜の夢に折坂悠太が出てきたので笑ってしまった。私の脳みそは時々ものすごく単純だ。こういう夢だった。

夢には有名な歌手が二人出てきたが、どちらもまだ小さなライブハウスで活動している設定で、ステージの後に客が話しかけやすい雰囲気。中村佳穂さんのライブを聴きに行く。吹き抜けの明るい建物の中、淡い色味の布がカラフルに張り巡らされていて入り組んだ蜘蛛の巣のよう。その中心で中村さんは一人がけのソファに腰掛け、傍らに立つ他の客と談笑している。ソファの背もたれは高く両脇に肘置きがあり、きれいな布で覆われていて王様の椅子みたいだ。中村さんが布について説明を始めた。会場に張り巡らされた布は中村さんの楽曲をイメージして作られた。ソファにかけてあるのは中でも特別のもので、非常な力作である。誘われるままに近くでよく見てみると、たしかに厚手で織り目に立体感があり、微妙に色彩の異なる糸が複雑に組み合わされていて、手のかかった布であることがわかる。カーテンの布地として販売されることが決まっているのだそうだ。そして中村さんは、この布のことを私の友達である折坂悠太さんに伝えてくれないか、と私の目を見て言う。思いがけず伝言役の命を帯びることになり、私は戸惑いつつも喜んで引き受ける。建物を出て細々としたビルが立ち並ぶ界隈を抜け、折坂さんのいる場所へ向かう。さっきとは打って変わって巨大なスポーツ競技場やホール、公園などが整備された開放的なところだった。ライブ後に知人と雑談していた折坂さんに隙を見て話しかけ、言われたとおりの伝言を伝える。二、三言ぎこちない世間話をしたあと、では帰りますと言うと、ならそこまで、と折坂さんは「心理」のジャケ写みたいな読めない感じの表情で言い、なぜか会場前の広場まで見送ってくれることになる。どちらも手にビニール傘を提げて歩いている。短い雑談の中、内容は忘れてしまったが非常にささいな事柄について意見が深く一致する。別れの間際に名残惜しくなり「握手をしてもいいですか」と訊ねると、折坂さんは無表情のままスッと右手を出してくれる。私は右手に傘を提げていたのでとっさに左手を出してしまい、そのせいでがっしりと手を合わせるのでない、不完全な握手になった。が、嬉しかった。帰り道、大きな公園に作られた人工池の前に差し掛かる。休日なのか人出が多く野良猫もたくさんいる。近くに二匹の野良猫がいて、そのうちのまだ若くて痩せっぽっちで薄汚く不健康な感じの白黒模様がこちらへにじり寄ってこようとしている。嫌だな、と思って傘を前に突き出し、先が当たってしまわないよう注意しながら牽制するが、猫はお構いなしにじりじりと近寄ってくる。一瞬の隙を突いて猫の首あたりに傘の先を向け、持ち手についたボタンを押してノミ取り剤を噴射すると(そういう機能があったのだ)、途端、猫の体の表面に小さなノミが何匹も這い出して、苦しそうにぴんぴんともだえつつ猫の体から落ちていく。だとしても触りたくはないのだが、ノミが落ちてよかったな、と思った。 

目が覚めてから、私はライブでノミを取ってもらったのかもしれないと考えた。

 

今日は遠方で仕事。お腹の調子が悪く、張った感じの続く一日だった。もしかして昨夜のカップ麺とコンビニおにぎりが良くなかったのか。帰りはバスを使わず歩いていくことにし、やっぱりたくさん歩くと調子がいいよな、天気が良くて道はまっすぐ、散歩しか勝たん、などと思いながら歩いていると突如「暗雲」としか形容しようのない雲が現れ、木枯らしとともに雨がびしょびしょ降り始めて一気に気分が盛り下がった。散歩は雨に負ける。しかも駅についた瞬間にパアッと晴れた。ふざけてんのか。モンベルの晴雨兼用折りたたみ傘があって本当に良かった。持ってるのを忘れるくらい小さくて軽いのだ。帰ってから睡眠不足と疲れと胃のもたれにぐったりして嫌な感じの昼寝をしてしまった。夜は手羽元と蕪のお粥を作ってもらって食べた。おいしかった。

折坂悠太 心理ツアー@ロームシアター京都

今日は折坂悠太の「心理ツアー」に行ってきた。ライブと名のつくものに出かけるのは久々だ。ちょうど丸二年ぶりくらい。一階席の後方上手通路側でそんなにいい席ではなかったけれど、ロームシアター京都サウスホールはこじんまりとしていて良い距離感だった。ピクミンで時間を潰し、開演数分前になってからスマホをしまって待っていると会場が暗転し、音が鳴り始め、舞台に折坂悠太さんと重奏のみなさんが現れた。そうそう、お芝居やライブが始まる時ってこんな感じだった。暗転してからの数十秒はとてもわくわくする。その感覚を思い出してじーんとした。

 

ライブは大変素晴らしかった。折坂悠太のことを高音が特徴的できれいな人だと思っていたけれど、どしんと飛んでくる低音の太い声もよかった。時々上を向いて歌ったり、間奏の間は横を向いていたり、うまい具合に観客から目を背けている感じが良い。赤緑に明滅するライトを浴びながら天井に向かって意味をなさない声をほとばしらせたりすると神がかり的な雰囲気だった。歌詞と声によって立ち上がる風景が土と風の気配に満ちていて、観察力にすぐれた詩人の目を持つ人だなとつくづく思う。少し古めかしく懐かしく、そのくせ数十年数百年先の未来にも同じ古ぼけた顔でしれっと魔力をふるい続けていそうな、そういうものが好きなのだ。重奏の演奏もものすごく、生音で聞けて本当に良かったと思った。久方ぶりのライブだったので音が空気の壁や衝撃として感じられ、「浴びた~!」という気持ちになった。

 

思い出した順に印象に残った歌をいくつか。「爆発」はやっぱり良かった。しょっぱなだったし気分が高ぶっていたのもあってホロリとした。「悪魔」は歌詞が好き。「雑木林うち捨てられた/自転車たちが海を目指す/たどり着けば泳ぐでもなく/けたたましくベルを鳴らした」をはじめとするマイクロノベル的情景。悪魔らしくやや芝居がかった動作が挟まるのが良かった。サブスクで大体の曲を知っていたつもりだったけれど、「針の穴」は多分今日初めて聴いて、今の自分にとても刺さった。「春」は冬が深まるとともにつらい気持ちになりがちな自分には嬉しかった。必ずまた来る春への道筋をつけてもらったような気になった。「炎 feat. Sam Gendel」は音源だと異様なMVと相まって抑うつがひどい時の感覚が喚起されるのだが、今日はちょっと明るく前向きな感じがした。そして「夜学」、「夜学」! 朗読的パフォーマンス。弾き語りで始まって一旦は重奏のみなさんがいなくなり、そしてドカンと戻ってきて、本当に素晴らしかった。

 

MCは控えめで割と淡々と演奏していく流れだった。途中、直前に楽屋で話していたという「子どもの頃怖かったもの」の話になった。

子どもの頃怖かったもの。迷子になるのが怖い、親が死ぬのが怖い。あるメンバーは親が死ぬのが恐ろしくて、どうか死なないようにと、夜寝る前に祈っていたと言うんですね。けれどだんだん死んでほしくない人が増えていくのだと。うちの子も五歳になるのだけど、親が死ぬのが怖いと言う。子どもは怖いものがたくさんあって、これは大変なことだ。深刻な問題です。けれど大人になると死んでほしくない人はどんどん増えていく。こうしてツアーであちこち巡っていると生活圏が拡張されていくような感じがあって、たくさんの出会いがある。お互い大変ですね。大変ですねというテーマの歌を、おもに歌っております。

これは記憶のみに頼った書き起こしなので正確ではないけれど、そんなようなことを折坂さんは言っていた。MCが終わって次の歌が始まったが、私は子どもの頃に心底怖かったものをまざまざと思い出して泣いていた。思い出したという表現は正確でなく、怖がっていたことに気がついたのはずいぶん大人になってからだったのだが、それならばなんで泣くのだかわからない。怖いと気づくことすらできなかったものを怖いと思えるのは、いいことだと思う。けれどやっぱり今でも少しは怖いから、これ以上くわしく書くのは止しておこう。

 

アンコールもどっさり演ってくれて、ほわ~っといい余韻を抱えてホールを出た。飲食店に行く時間でもなかったのでコンビニでラーメンとおにぎりを買って食べた。昨年のお正月にアト6の大晦日ライブで「トーチ」を聴いて衝撃を受けてから、コロナがあってようやくライブに来られて、不思議な感じだ。明日は仕事。

 

以下はアルバム「心理」とおすすめの歌へのリンクです。

 

心理 - Album by Yuta Orisaka | Spotify

 

www.youtube.com

 

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亀仙流

今日は仕事で出かけてたっぷりと歩いた。日中は暖かかったこともありいい散歩だった。リュックにノートPCを入れていったのは失敗した。出かける支度をする時、電車移動が長いのもあって「空いてたら移動中に仕事できるかも」と思って毎回荷物に加えてしまうのだが、案の定というかなんというか実際に開く率はそんなに高くない。今日もそうだった。というかノートPCを入れた直後に『ネットワーク・エフェクト』もリュックに入れて「続き楽しみだな~」とか思っており、その時点で自分が二つに分裂しているのだが、支度をしている時は気付かない。今日は『ネットワーク・エフェクト』を読む方の自分だった。弊機とARTの険悪な友情がとてもかわいい。さらに最悪なパターンとしてノートPCと本を持っていったがずっとスマホでネットサーフィンをしている日もあるので、わりと上等な日だったと言える。

開きもしないノートPCは重石にしかならない。携帯性の良い機種でもないため普通にでかいし、重い。だいたい私の仕事用リュックはクソでかく、こないだ他人に後ろ姿の写真を撮られたのを見たらジェットパック背負ってるのかと思った。が、たとえ使うことがほぼなくてもいざとなれば使えるという可能性を残しておきたいのだ。そんなクソデカ激重リュックを背負ってわしわし歩いていると小学生の頃を思い出した。翌日の時間割に合わせて毎日教科書を出し入れすることが壊滅的に苦手だった私は、全科目の教科書をランドセルに常にびっちり詰めておくという力技でこれを解決していた。当然ランドセルはものすごく重い。背中に重心が傾いて油断するとひっくり返りそうになる。しかしこのスタイルを「鍛錬」と呼ぶことで正当化していた。ドラゴンボール孫悟空だって、亀仙人のもとで重たい亀の甲羅を背負って修行したではないか。会社を辞めて無職を謳歌していた四年前、友人と友人夫婦、その赤ちゃん、同居人、私というオール無職のメンバーで二週間の北海道旅行を敢行した際、その場にいる大人が全員「鍛錬」スタイルで通学していたことが判明し、ぞっとしたことを覚えている。

 

帰りに成城石井で三割引になったちりめんじゃこをゲットし、夕飯に大根おろしを乗せて醤油を垂らして食べた。ちりめんじゃこはこの食べ方が一番好きだ。ちょっとどうかしているくらいおいしい。なんでこんなにおいしいのだろう。実家で度々副菜として出ていて、レシピなんかないと言っていいくらいシンプルなので再現性が高いということはあるかもしれない。それにしてもおいしすぎないか。何か化学反応でも起きているのか。ちりめんじゃこが寄り集まると小さな隙間がたくさんできて、そこに大根おろしと醤油がたっぷり染みる。口に含んでまずは汁気を味わい、満を持してちりめんじゃこを噛みしめると魚の味と塩気がワ~ッと広がってうまい、うますぎる。時間をかけて噛み締めてしまうこの感じもおいしさに拍車をかけている。今日の大根はひからびかけたしっぽの部分で水気が少なく、舌がびりびりするほどからくてそれも良かった。おかずは何品かあったのだけど、「ちりめんじゃこと二人きりになりたい」というキショい気持ちが湧いてきて、他のおかずを食べきってからあらためて御飯とちりめんじゃこで夕飯を締めくくった。最高だった。しかもパックに意外とたくさん入っていたのでもうしばらく楽しめそうだ。

 

脈絡ないけど先日散歩中に「三角コーンの墓場」という歌を作ったのを思い出したのでここにメモします。

 

「三角コーンの墓場」

作詞・作曲 蜂本みさ

 

三角コーンのは・か・ば

三角コーンのは・か・ば

 

バリバリに 割れている

跡形もなく 割れている

 

三角コーンのは・か・ば

(ハイ)

三角コーンのは・か・ば

 

三角三角三角三角

コンコンコンコンコーンコーン

 

三角コーンの

墓場!