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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

点取日記 41 土葬にしてくれ

朝起きてはじめにやったことは、昨日焼いた生姜とレモンのパウンドケーキの仕上げ。粉糖にコーンスターチとレモン汁を入れて混ぜ、白いとろりとした液体を作ってパウンドケーキにかける。ちょっとレモン汁が多すぎたらしく、思い描いたようなケーキの縁からたらりたらりと垂れるアイシングにはならずに大方染み込んでしまったようだがまあこれはこれで良いだろう。指についたのを味見したらレモンの酸味が利いていておいしかった。

 

昨日、緊急事態宣言が発令された。宣言が出されたのは関西圏では大阪府兵庫県だけで、私の住む京都府は一応関係ない。そうは言ってもTwitterでは多くの人がしきりに議論しているし、私もまだ昨日の記者会見への怒りが収まっていない。

 

それはそれとして今日は一大事がある。左下の親知らずをとうとう抜くのだ。

本当は前回抜く予定だったのだが、CTスキャンを見た先生が渋い顔をしてそのまま一時間半の話し合いに突入したため、今日にずれ込んでしまった。何も今日でなくてもと思う。しかし私の左下の親知らずは歯肉の中に横倒しに埋まっていて、それが伸びて手前の歯を圧迫し続けており、そのせいで手前の歯は根元がえぐれてしまっているのだという。放置して押され続けた手前の歯が割れるなどすれば、大変痛い目にあうと脅された。というか私が勝手に怯えたのだが、ともかくそういう事情で先延ばしにしてもいいことはなく、親知らずを抜くか、手前の歯を抜くかは大変難しい選択だった。

話し合った結果親知らずを抜くことにし、しかし前の歯が支えを失ってぐらつきやすくなる恐れがあるので、抜歯跡の穴に骨ができるよう促す骨剤を入れるということになった。自費診療で6万円かかると伝えられ血の気が引いた。よりにもよってこのタイミングで高額の出費は大変痛手である。しかし骨材無しで後は野となれ山となれ、歯が生えるかぺんぺん草が生えるか楽しみじゃガハハと笑えるような私でもない。

 

歯医者に行く前にお金を引き出しに入った。外はよく晴れていて、道沿いの桜からひっきりなしに花びらがこぼれてなかなかすごい光景だった。川に花筏が浮いてさらさら流れていった。クマバチが元気にホバリングをしていた。オスであるらしく、縄張りに寄ってきた他のオスや、時にはスズメにまで果敢に突進して威嚇する様子はなかなか迫力がある。クマバチ同士の戦いは戦闘機の一騎打ちのようで、ずっと見ていたら電柱のはるか高くにまで飛び上がるものだから驚いた。たくさん写真を撮ったがほとんど撮れなかった。

 

歯医者に着くと手指の消毒と検温をさせられた。開けっ放しの口と長時間にらめっこする仕事だし、歯科で働く人々のリスクは高そうだ。

洗浄やらうがいやらさまざまの下準備のあと、親知らずを抜く手術が始まった。幸いここの先生は痛いと言えば言っただけ麻酔をもりもり打ってくれるので、痛みに関してはそれほど恐れていなかった。しかし大きな手術や怪我の経験もない身で、これから赤い歯肉にメスが入って、血がどばどば出て、真っ白で健康そのものの親知らずが露出して、それを金属のドリルとかでギーコギーコと削り、歯を粉砕してピンセットで欠片をひとつずつ除去するのであるなあ、と想像すると動悸がするし、爪が皮膚に食い込むほど拳を握りこんでしまう。昨日たまたま爪を切っておいてよかったなあと思った。

先生もこちらの緊張を察しているので、色々と冗談を言ったりして和ませてくれるが、なかなか気分がほぐれない。なぜだか採血もされた。なんでも、骨材を入れた後に私の血液を遠心分離機にかけたものを入れると効果が上がるのだそうだ。おっかない技術があるもんだ。

 

目隠しをされほとんど感覚がないながらも、口の奥を薄いもので何度もなぞられるような心地がしたのでメスが当てられたのだと悟った。痛みは毛ほどもないが、喉に流れてくる液体はおそらく血だろう。ガリガリガリガリゴリリゴリリゴガキンきゅいいいいいんズオーズオーとたくさんの機器が音を立てた。永遠かと思うほど長い手術だった。

 

開けっ放しの顎がだるくて、引っ張られる口の端が痛くて、頭蓋骨じゅうで跳ね回る機械音に手がぶるぶる震えた。とにかく他のことを考えてやり過ごした。楽しかった旅行やケーキや色々のことを頭に浮かべたが、いちばん効き目があるのは、フィクションのことを考えた時だと気がついた。今朝読んだばかりの『青のフラッグ』の最終話の、枠線を越えて差し出された太一の手のことを考えるとスッと恐怖がひいた。午前中にtoi booksから通販で届いた『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』と『ピエタとトランジ<完全版>』の表紙を思い浮かべて、七森や麦戸ちゃんにもうすぐ再会できるんだ、ピエタとトランジのあの話の先が読めるんだ、と言い聞かせると体がここにいないみたいになった。

 

もうひとつ効果があったのは、現実をそのまま虚構にずらす方法である。親知らずは予想以上に複雑な埋まり方をしていて、一度はうまく抜けかけた歯の欠片がまた穴の中に引っ込んでやり直しになり、先生はあんまりごめんねでもない調子でごめんねとしきりに言った。そこで私は知らぬ間に死んでいて、3億年歯を削られ続ける地獄にいるのではないか、と思ったり、さっきから謝り倒しているこの先生はハキハキしていてかっこいいけれど実はめちゃくちゃに狂っていてやけに時間がかかっているのは親知らずには手をつけず他の健康な歯を何本も抜いているせいだったらどうしよう、と想像したりすると、そっちの方が怖すぎて今ここにある恐怖が少し薄れるのだった。

 

死のことをいっぱい考えていたら突然頭の中が「土葬にしてくれーっ」という声でうるさくなった。「土葬に、土葬に、土葬にしてくれーっ」

なんでやねん、と突っ込みそうになったが、自分の気持ちがすぐにわかった。こんなひどい目に合って親知らずを失ったのに、最後は火葬にされてばらばらの塵になるのは嫌すぎる。せめて土葬で骨を遺し、叉状研歯を伝えた縄文人のごとく、親知らずを抜いた跡のある頭蓋骨として後世研究される可能性に賭けたい。自分の葬式は散骨派だったがこの時ばかりは土葬が魅力的に思えた。

 

ようやく歯が抜けたので骨剤を入れる段階にうつって、目隠しの隙間から眺めていたら、あれが血餅というものなのだろうか、白くてとろりとした、餅というより今朝かけたアイシングのように半透明で、上等な葛餅のようにぷるぷるとした何かがずるりと口に押し込まれる瞬間を目撃してまった。やっぱり先生は狂っているのかもしれない。

終わりましたよと言われてそっとうがいをすると、口の中が焦げた焼肉みたいな味でいっぱいになったので歯科衛生士さんにそう言ったら、「抜歯した跡をレーザーで焼いてかさぶたを作ってあるんです」と教えてくれた。おっかない技術があるものだ。

 

帰宅すると同居人が抜歯に耐え抜いたことを祝して、ピーナッツ小魚の大袋をプレゼントしてくれた。これでカルシウムを補給して丈夫な骨を作ってね、という意味だ。もちろん大いにそのつもりである。世の中には噛み砕くべきものが多すぎる。

 


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「学校へわすれものをしてゆくだろう 2点」

 

内容と関係ないが、点取占いは時々挑戦的な文字組みを仕掛けてくるところが気に入っている。