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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

電車のふたり

これはTwitterにもう書いた話だけど、電車でおととい見かけた光景が2日経った今も頭について離れないので、印象をくわしく書き残しておこうと思う。

 

 

大体は上の通りだ。

土曜の午前中、友達の家に向かう電車に乗った。冬のわりによく晴れた日で窓の外が明るかった。途中、電車はまあまあ大きい駅に止まって、そこに二人組が乗ってきた。

ひとりは70歳くらいのおじいさんで、白い杖を持っていた。目の見えない人だ、と思った。もうひとりは同じ年頃か、少し若い女の人で、70歳より少し下に見える人はおばあさんではないかとも思うが、その人は背筋がしゃっきりしていて少々落ち着きがなく、どうもおばあさんと呼ぶ気になれないので女の人と言うことにする。はつらつとした人だった。

 

ふたりは通路を歩いてきて、たまたま空いていた私の向かいの席に座った。どちらも暖かそうな格好をしていて、私はどこか公園にでも出かけるのかな、今日は晴れてよかったな、と、ふたりとその向こうに流れる風景をひとまとめに眺めていた。

そうしたら、にこにこしたその女の人が突然おじいさんの方へ向き直って両方の手をとり、座ったままダンスを始めた。

 

ダンスを始めた。のではなかった。右手でおじいさんの左手をとってとんとんと二の腕を叩かせたり、左手でおじいさんの右手を握ってくるくると掲げさせたり、それはフォークダンスのようだったけれど、ダンスではなかった。その証拠に動作を終えたあと、おじいさんが閉じていた目をうすく開いて、ウフッと笑ったのだ。手話だった。その人は目だけでなく耳も悪いらしかった。

 

おじいさんは手を離すと、今度はひとりで手を動かし始めた。こちらは何度も見かけた覚えのある動きで、はっきり手話だとわかった。それじゃあやっぱりさっきのダンスは手話だったんだ、と思った。手話はふつう視覚を介して内容を伝えるけれど、おじいさんは目も見えないので、おじいさんの体に動作を直接トレースして、触覚によって伝えているわけだった。そういう手話を私は初めて知った。

女の人はおじいさんの動きを見つめてアハアハ、と声を出して笑った。そしてふたたび手をとり、すごいスピードで相手の手を操作して、さらにおじいさん手のひらに人差し指で何やら文字を書きつけた。おじいさんはウンウンとうなずき、あとはそのくり返しだった。ダンス。手のひら。笑い声。ひとりの手話。また手のひら。笑い声。ダンス。会話だった。しかもとても盛り上がっている会話だった。盛り上がっているのに、笑い声以外は衣擦れしか聞こえなくて、奇妙だった。

 

私はなんだかもう釘付けになってしまって、とにかく目が離せなくて、ずっとふたりを見つめていた。他人の会話を盗み聞きするなんて(盗み見?どちらにせよ私はふたりの話している内容がさっぱりわからない)、行儀がよくないけど、やめられなかった。何かものすごいものを見ている気がした。

 

じっと見ていることをおじいさんに悟られる心配はなさそうだったが、女の人も私にはちっとも気が付かなくて、ひたすら楽しそうだった。すごくはしゃいでいて、おじいさんと出かけるのが嬉しくてたまらないみたいだった。

電車が別の駅につくと、女の人はおじいさんの腕をぽんと叩いて、降りるよお、と声をかけ、ふたりは降りていった。そこでおじいさんの聴力がゼロではないらしいことと、女の人は声が出せる、ということがわかった。ふたりの関係は最後までわからなかった。夫婦か恋人か、兄妹か。もしくは単に仲の良い友人とか、施設の入所者と介助者かもしれない。

 

電車が動き出してからもふたりが頭から離れなかった。厳密にはふたりの動作が。と、笑い声が。

あの動きの奔流のなかで何が話されていたのか私は知らない。楽しそうだったけど、誰かの悪口や、どぎつい下ネタ(公共の場で暗号を使って下ネタが話せたら愉快だと思う)だったかもしれない。いややっぱり今日のお出かけの計画についてかも。「公園に着いたら鳩にパンをやらない?いつ突っつかれるかわからなくてスリリングでしょ」みたいな。

 

ああいう会話のやり方があるんだと思ったら、嬉しくなった。もちろん手話は覚えなくちゃいけないけど。それって今からもう一度日本語を覚え直すくらい大変そうだけど。

ふたりのやり方のすごいところはもうひとつあって、それはおじいさんが女の人の言葉を、自分の体で語りながら受け取っているということだった。読みながら書く。聞きながら話す。あなたの言葉が私の言葉になる。もしもあのふたりが喧嘩をしたら、「わからずやの最低野郎!」と、おじいさんは自分を罵るだろう。「嘘。ありがとう。愛してる」と、おじいさんの体はおじいさんに語るだろう。

いつか私が老い老いて、隣にいる人の顔が見えなくなり、笑い声が聞こえなくなってなお、コミュニケーションが奪われないこと、むしろふつうには到達できない濃密さで生み直されるかもしれないこと、私はそれを希望と呼んでかまわないと、終点に向かいながら思った。しかもすさまじい強度の。