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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

水まんじゅうと虚無

 職場の人からお土産で水まんじゅうをもらった。水まんじゅうを食べるのはずいぶん久しぶりで、正確には思い出せないが10年ぶりかそれぐらいだと思う。手のひらに収まるサイズの個包装は少しざらっとした和紙でコーティングされていて、上をハサミで切って押し出せば手を汚さずに食べることができる。ちょうど小腹が空いていたのでその場で食べてみた。半透明のぶるぶるの中に丸められたこし餡が浮いている様子は何かに似ている。動物細胞の組織図に似ている。ぶるぶるのところが細胞質基質っぽくこし餡は核っぽい。そんなことを考えて、気がついたら水まんじゅうを食べ終わっていた。

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 「意味がわからない」と思った。なんだこれは。食べた印象がまったくない。まずくは決してないが、物を食べた時にあるはずの満足感や嬉しさが一切浮かんでない。これはおかしい。10年近く食べていないとはいうものの、「水まんじゅう好きですか」と問われれば私の答えは「理論上好きなはずです」だ。私はグミやゼリーみたいなぶるぶるした食感のものが大好きでよく食べる。あんこはつぶ餡派だけどこし餡を敵視しているわけではないし、あんこそのものは好きだ。そしてどちらかというと甘党でなく、水まんじゅうのやさしい甘さはむしろ嬉しいはずだ。はずなのだが、食べた感想は「意味がわからない」だった。
 混乱したので余っていた水まんじゅうをもうひとつもらってきた。さっきは上の空だったから味がわからなかったのかもしれない。ちゃんと水まんじゅうと向き合おうと思い、ふと横を向いたら隣の席の同期と目が合った。その子も水まんじゅうをふたつもらっていた。「水まんじゅう、好きですか?」と尋ねたら「大好き」とその子は言った。おお、水まんじゅうがわかる側の人だ。蜂本さんは、と質問を返され、「さっき食べたんですけど感情がまったく動かなかった。感情が無」と返事をした。苦笑いされた。水まんじゅうとしっかり向き合うべく包装にハサミを入れ、少し押し出して匂いを嗅いでみた。無臭だ。いや、かすかに甘い匂いがする。個包装にも書いてある和三盆の香りだろう。こし餡の気配はない。一口で口に入れて味に集中しながら噛む。噛むといっても歯茎と舌でつぶせるぐらいやわらかい。もぐもぐやっていたら「どうですか」と隣で見守ってくれていた同期が言った。なんてやさしい人だろう。「うすあまい」と私は答え、さらに苛立ちを込めて「うすらあまい」と言い直した。
 それは水まんじゅうのいいところですよ。と同期が言った。その通りだと思う。いくつか意見を述べ合ったあと私には水まんじゅうを食べる才能がないという結論になった。本当にその通りだと思う。私が水まんじゅうを食べると、水まんじゅうを食べたという時間、というか事実が水まんじゅうのぼやけた輪郭の中にブラックホールのように吸い込まれ、なかったことになってしまうのだ。水まんじゅうは虚無なのだ。また当然のこととしてカロリーもないだろう。食べた事実自体がどこかへ行ってしまうのだから。
 思い返せば毎年、夏になるとよく家にお中元の水まんじゅうが届いていた。和菓子の割に日持ちする水まんじゅうはしばらくの間冷蔵庫の一角を占め、いつの間にかなくなっていた。積極的に食べることはなかったけれど、子供の頃から食べるたびに同じわからなさを味わっていたと思う。虚無味なのか。水まんじゅうは。水まんじゅうが理論上好きであるはずの私は、いつかはわかる側の人になりたいが、今年も水まんじゅうと折り合えないまま夏が終わる。