/* 本文の位置 */ #main { float: left; } /* サイドバーの位置 */ #box2 { float: right; }

蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

点取日記 36 おれたちゃ都会のスカベンジャー

最近週に一度図書館に通っている。自転車に乗って涼しい図書館に行き、節操なく本を選ぶのは大きな楽しみであるけれども、この習慣にはもうひとつ中くらいの楽しみがくっついている。少し遠回りして近くの輸入食品店をのぞくことだ。

 

そのお店はそこそこ大きな通りに面しているのに、他のお客さんが入っているのを見たことがない。インドっぽいスパイス詰め合わせやら中国っぽい真っ赤な瓶詰めやらいろいろあって品揃えも悪くないし、外国のワインやビールがいつでもクーラーの中で冷えているのだが、こんなにお客さんが少なくてどう経営を続けているのか謎である。

 

時々訪れる私にしてもいい客とは口が裂けても言えず、私が唯一気にかけているのは、店の入り口から見えている床の上にあのカゴがあるのか、ないのか、それだけだ。その日のぞいてみると、あったあった、素っ気ないプラスチックのカゴが少し薄暗い店内に置かれていた。

 

中に入ってカゴをあらためる前に一応店の奥に向かって会釈する。こんなにひと気がないのにいつでもレジの横に店員さんがひとり座っているのは驚くべきことだ。カゴには“close-to-date”という貼り紙がくっついている。賞味期限の迫った食品が時々ここに集められ、割引価格で投げ売りされているのだ。そして私はそのカゴをチェックするのを楽しみにしている。

 

とくに見つけると嬉しいのがHARIBOのグミ。HARIBOはもともと大好きだけれど、この春のドイツ旅行で現地価格を目撃してしまい、帰国したらずいぶん高いと感じるようになってしまった。たとえ賞味期限が近くても安く買えるなら願ってもないことだ。その日のカゴにはゴールドベアグミのミニパックがたくさん詰まった大袋が出ていて、一度は手に取ったが、思ったほど安くなっておらず、迷った挙げ句カゴに戻した。もう少し日数が経つとさらに安くなるのを私は知っている。

 

がっかりした気分で店を出る。自転車を漕ぎ出しながら今の私あれに似てたな、と思った。西部劇なんかに出てくる、あのでかい鳥。運悪くインディアンの襲撃にあった主人公一行は命からがらテキサスの荒野を敗走する。地図も食糧もなく頼れるのは仲間と馬ばかり。殴りつけるような太陽の光に疲弊し、力を振り絞って大岩の陰に逃れるが、とうとう主人公たちは地面に倒れ伏してしまう。照らされる大地を不気味な黒い影が横切り、それはやがて三つ、四つと増えていく。痩せこけた頬を汗と土で汚した主人公が空をにらんでつぶやく。「あいつら、おれたちが死ぬのを待っていやがるんだ……」

 

ハゲワシをはじめとして、カラスやシデムシなど腐肉や屍肉を食らう肉食動物たちはスカベンジャーと呼ばれている。彼らはほとんど狩りをしない代わりに動物の死骸を見つけるのがとても上手で、死骸に群がって内臓を引きずりだし目玉をほじくり、腐臭を放つ肉を食う。そんなものを食べてお腹を壊さないのかと思うけれど、ちゃんと新鮮な死骸を見つける術を持っていたり、有害なバクテリアから身を護る生体機能が備わっていたりするそうだ。時には狩りをした動物から獲物を奪うこともある。光景としてはおぞましいけれど、スカベンジャーがいなければ死骸が世界中にあふれてしまう。食物連鎖にとっても大切な存在なのだ(以上の話は、『夏休み子ども科学電話相談』で鳥の川上和人先生が話していた内容の受け売り)。

 

以上を踏まえると、なんだかみみっちい“close-to-date”チェックもそれなりの正当性を帯びてくる気がするから不思議である。私はこの店に限らず、スーパーで見切り品を見るのが好きだ。我ながら貧乏くさい、つましすぎると自覚しつつやっぱり見てしまう。しかしスカベンジャーの理論でいけば、店が通常価格では売れないと判断し、そのままでは廃棄ロスになってしまうかもしれない食品を瀬戸際で経済のサイクルに押し戻しているわけで、なかなか立派な働きをしているといえるのではないだろうか。

 

それにこの趣味はこれで意外とゲーム性が高いのだ。見切り品が出始める時間を読み解く調査力。見切り品の山からこれぞという掘り出しものを見つけるサーチ能力。本当に救いようがないほど傷んでいる場合もあるため、迅速で的確な判断は欠かせない。お得感を出しつつ実は大して値引きをしない悪徳店舗との攻防もある。

 

言うまでもなく最大の敵は同じ趣味を持つ同志だろう。先月は例の輸入食品店でHARIBOがずいぶん値下がりしていたのに思いきれず、数日おいてやっぱり買おうと店を訪れたら、もう売れていてかなり悔しい思いをした。とくに大型スーパーでは見切り品のラックまわりに常時複数の客が群がっていることも珍しくなく、一秒一刻が命取りになりかねない。48円の小松菜を手に取り、真剣に葉のしなび具合を見定めてまた戻すその目つきは、こう言って差し支えなければ目利きのそれである。おれが、おれたちが都会のスカベンジャーだ。

 

HARIBOは不完全燃焼に終わったけれど、今日の夕方スーパーに行ったら和歌山県産の桃が二個300円になっていて、迷わず買った。桃は大好物なのだ。産毛のたった肌に小指の先ほどのうす黒い染みが浮いているだけであとは何ともない。柔らかく傷みやすいフルーツは見切り品の花形だ。今の季節は桃が狙い目だし、八月半ばにもなればきっと無花果が出回るだろうと考えると今から待ち遠しい。

 

家に帰って桃を冷蔵庫にしまう時、ふわっと桃のいい香りがして、冷蔵庫を抱きしめたいくらい嬉しくなった。それから思った。テキサスの荒野で人間が死ぬのを今か今かと待って滑空しているハゲワシって、すごく、ものすごく楽しいだろうな。

 


f:id:hachimoto8:20190713230004j:image

「少しぐらいのことでびっくりするな 5点」
びっくりしたあ。
私、少しのことでびっくりするために生きてるようなもんなんだぞ。

点取日記 35 虫の運命

この半月ほど脳の調子がおかしくなって寝たり起きたりしていた。家にひとりでいると不安や悲しみや無力感が発作的に襲ってくる。それは間欠泉に似ていて、心を覆っている岩と岩とのすき間から数十分間隔で感情が蒸気や熱湯となって凄まじい勢いで噴出し、子どもの頃の嫌な記憶や後でつらかったと気づいたこと、じくじくとした自己嫌悪、みっともない癖のこと、ここ最近の些末な対人的やらかしなどがあたりに散らばる。最後には「もっと全部普通がよかった」「もっと善い人間になりたかった」「もっと頭が良ければよかった」「求められることを何ひとつ満足に出来なくて苦しい」といった気持ちがドロドロとヘドロのように湧き出て、発作は収まる。その間私は脱力して動けない。

 

断続的にこのような発作に襲われ、かつ休日に用事がないと人間はどうなるか。とにかく寝床で寝ているようになる。横になったからといって眠れるわけでもない。ただ打ちひしがれて自己嫌悪の波が寄せたり引いたりするのを眺めているだけだ。そしてトイレに行くのが面倒くさい。とても面倒くさい。尿意を感じてから1時間、膀胱が限界を迎えた瞬間がばと起き上がってあわててトイレに向かう羽目になる。たくさん泣いたり鼻をかんだりした時ほど膀胱がすぐ満タンになる気がするのは不思議である。

 

いそいそとトイレに入ると、規則正しく敷き詰められた水色のタイルの上に枯れ葉のようなものが落ちていた。蛾だった。スズメガの仲間だ。日常見かける蛾としては大きい方である。ともかく切羽詰まっているから、踏まないように避けながら用を足して、一度は扉に手をかけたけれど床を振り返って見た。次はうっかり踏むかもしれない。大きな虫を踏むのは嫌なものだ。

蛾をつまみ上げて手のひらに乗せた。死骸かと思ったが生きていた。ぽってりした体に細かな毛が密に生えている。虫というより鼠のようだ。柔らかくてやさしくて少しひんやりした翅が細かく震えたが飛んではいかなかった。翅の力が弱いらしい。うまく羽化できなかったのだろうか。放してやったところで大して生きられないのではないか。ひとまずトイレを出た。

 

しかし蛾はどこから入ったのだろう。この家のトイレは天井がちょっと変わったつくりになっていて、大きな横穴が開いているから、外から虫が入ってくることは十分ありえる。夜の灯りに誘われて迷い込み、つるつるの床に落ちて脱出不能になったか。

庭で適当な樹を見つくろって止まらせてやった。蛾はすぐにすべり落ちてよろよろと草の間を飛んだ。蟻にやられるかもしれないと思った。

 

部屋に戻るとさっきまでの絶望感が嘘のように消えていた。突然お腹がすいたと感じ、朝から何も食べていなかったので房からバナナをもぎって食べた。甘くてうまかった。

 

平素の私は呑気者だ。よくも悪くも鈍感で、たぶん色んな人を苛立たせているはずだが、それにすら感づかないので支障が出ないといったタイプの人間だ。以前すごく気のつく先輩が「怒った人が出ていったあとの部屋に入るとその気配を感じることがある」と言っていてそれは一体どんな世界だろうと思った。

人に会えば嬉しく益体もない冗談ばかり言うしたいていは機嫌よくしている。ごはんを食べればおいしい。夜はよく眠る。どうして時々こんな風になってしまうんだろう。

 

 

それから五日ほど経った休日、症状はさらに悪化していた。寝床に縛り付けられたように動けなくなった。

こういう状態に陥るのは初めてではない。というよりも小学生の頃から良くなったり悪くなったりしつつずっと付き合ってきていて、しかしここまで落ち込むのは経験上冬だけである。この冬は乗り切れないかもしれない、と毎年覚悟するけれど春になればあっさり回復するのを私は知っている。人間に冬眠の機能が備わっていないのは進化上の大失敗だと思う。しかし今は初夏で、本来調子がいいはずなのだ。

 

ある日は寝込んで夕方までまともに動けず、ある日はたくさんの人に会って仕事を片付け、という状態が交互に続いていた。

こういう時本当に自分を助けてくれるのはほどよい仕事である。締切は偉大だ。締切があるとどんなに落ち込んでいようと、徹夜をしようと間に合わせなければという義務感で動ける。

約束をして人に会うのもいい。誰かといるとひとりの時の自分が嘘のようで、とはいえこうも長引くとどちらが嘘なのかよくわからない。

 

またもや尿意を決壊寸前まで我慢してしまいあわててトイレに行った。そうしたら、またあの蛾が落ちていた。同じ大きさ、同じ模様、落ちている位置まで一緒だった。

 

その時の気分も合わさって暗然とした気持ちになった。まるっきりこの間の再演だ。用を足してから蛾を拾った。蛾は肢をもぞもぞさせて弱々しく抵抗した。二対の翅は小さなナイフのような流線型で、枯れ葉色の地に薄い筋が走り、ごく小さな黒い斑がついていた。その翅の模様と元気の無さには見覚えがあって、この前と同じ奴が戻ってきたのだと私はほとんど確信した。

なぜだ。緑のあるところに放してやったのに。こんな場所に食べるものはない。冷たくて無機質なタイルと陶器の便器があるだけだ。

 

家を出て庭を通り過ぎて道を渡って植え込みのところまで行った。ここまで離れれば戻ってこれまい。木の根元にそっと蛾を置いて帰ってきた。今度こそ蟻か、でなければ鳥にでもやられるかもしれないと思った。

 

部屋に戻って、あの蛾はこの前の蛾と同じ個体だろうか、とふたたび考えた。別個体の可能性もないではないけれど、とにかくあの種の蛾は光、あるいは排泄物の残り香か何か、へ向かうようできているのであって、だから蛾に何ら利する物のないトイレのような場所に間違って迷い込む、何度でも。

 

虫は運命に従う生き物である。運命、または本能と呼ぶべきものによって移動し、食べ、繁殖する。行動を決める時、学習や思考が影響する割合は人間に比べて少ない。去年この家に引っ越したばかりの頃、小さな蜘蛛が何度追いやっても同じ場所に現れて最後には大きな巣まで作ったので仰天したことがあった。彼らは常に環境に応じて精緻に行動するけれど、「一度失敗したから今度はやめよう」というようなことはしない。生き延びるものは生き延び、運の悪いものは死に絶えて、そうして何億年も繁栄してきた。

 

蛾のことを考えているうちにまた発作が襲ってきたから布団をかぶって耐えた。

友人たちの中には過労や持病や家族問題に悩みながら立派に生活している人がたくさんいる。私だってつい昨日は仕事をこなしていい反応をもらって、編集さんやデザイナーさんと喜び合ったのだ。先月なんか海外旅行に行ってとても楽しかったのだ。なぜ生きているだけで、こうして存在しているだけで不意に苦しくなるのだろう。誰も私を理解しない、いや理解されてたまるかと思った。

なんだか同じことばかり考えている気がする。どうしたって健全ではない。

 

あの蛾は私ではないか、という妄想が頭の中に湧いた。何度も同じルートをたどって、何度も同じ場所で行き詰まる。そこまで蛾に思い入れているのに、不思議と種類を調べようという気にならなかった。人間が勝手にどんな名前を付けたかなんてどうでもいいことだ、あの蛾と私は今それ以上に結びついているのだから。

でも私は虫じゃない。こんな風に発作に流されるままでいたくない。学習能力だって思考能力だって、まだまだ残っているはずだ。

 

あの蛾は私だ。もうだめだと思った。もう無理。もうひとりで堂々巡りをするのは限界。プロに頼るべきだ。だるい体を起こしてノートパソコンの前に座り、自治体の精神保健福祉の窓口や市内の医療機関をリストアップし、薬を使わずかつ保険が適用されうる療法について調べた。そしてWordを立ち上げて自分がどんな思考を繰り返しているかを書き出していった。

 

 

5日ほど経って朝目が覚めた時、“抜けた”という感覚があった。嵐は行ってしまった。散らかっていた部屋を片付けてゴミを捨て、to doリストを組み直した。また本をぐいぐい読み進められるようになり、大量の文章を書いて、一日中書いても楽しくてまだ書きたりなかった。

もう絶対に医者に行こうと思って認知行動療法を調べているうちに、素人ながらこれは試せるんじゃないかと気づいていくつか実行してみたらあっけなく寛解したのである。いや、何がきっかけかははっきりしない。ぐるぐる思考を言語化したからかもしれない。サプリだって飲んだし散歩もしたし猫もなでた。私はまた病院に行きそこねた。

 

こうして“抜けて”みると、自分が何に思い悩んでいたのかよく分からないのだった。まるで山で遭難して暗闇の中を一晩じゅうさまよっていたのに、夜が明けたら人里からたかだか50メートルも離れていなかった、という感じ。論理的に悩みを説明することはできても、苦しみの芯のような部分は霞がかかったようによく見えない。次の発作が起きるまで分からないだろう。苦しみの絶頂で誰にも理解されないなどと考えたが何のことはない、自分だって少し時間が経っただけで全然理解できないのだった。

トイレに行った。またあの蛾が落ちていた。これで三度目だ。蛾は、もうほとんど暴れなかった。ここ数日の寒さがこたえたのかもしれない。

 

例の植え込みの近くに蛾を連れて行った。紅茶をいれて待っている間、ふと思いついてインターネットで蛾の種類を調べた。蛾はコスズメという名前だった。成虫の出現時期は5月~9月で開張55ミリから70ミリ、全国的に広く分布し、幼虫はノブドウやエビヅルの葉を食べるという。

 

 


f:id:hachimoto8:20190611210736j:image

「ぐずぐずしてないで元気を出せ 4点」

それな。本当にな。点取り占いはたまにぴったりなのが出るので、びっくりする。

グミの聖地はボンにある

グミが好きか

グミが好きか?これはあなたへの質問ではない、私の魂に問うている。グミを愛しているか?答えはイエスだ。いつからか覚えていないほど昔から、私はグミが好きだ。

 

赤橙黄緑青紫の鮮やかな粒。ゼラチンを原材料とすることで獲得した、動植物でも道具でもどんな形にもなれる自由さ。それ自体が発光しているかのように半透明の体からこぼれる光が好きだ。

 

色のバリエーションはそのままフレーバーの多様さを意味する。イチゴ、リンゴ、オレンジのような果物を目指したものから、コーラやソーダといった人工的な味をさらに真似た複雑なものまで。味付けはほとんど砂糖と香料で、人類が人類のためにわざわざ作り出した香りなのだから、おいしいに決まっている。

 

弾力は魅力を語る上で欠かせない。酒好きに甘党と辛党があるように、グミ好きにも柔党と固党が存在する。私は完全な後者で、グミは固ければ固いほどいいと思っている。
グミを口蓋と舌で押しつぶして抵抗をしばし楽しんだあと、ゆっくりと歯を立てる時の感触が好きだ。口の中でグミがきらきらした数十の破片に砕けていく様子を想像するだけでうっとりしてしまう。一心に咀嚼していると、顎の付け根から唾液とともにじわっと喜びが湧いてくる。無限のリズム運動がセロトニンの分泌を促すのかもしれない。

 

グミ好きの引け目

どうもグミには依存性があるようで、前の職場でストレスが溜まっていた頃は毎日のようにひと袋消費していた。大人がどぎつい色のお菓子に夢中になっているのは少々見苦しいけれど、気軽なうさ晴らしだったのだ。

 

私があまりにもグミばかり食べるのでその時の上司に「口唇期が終わってないんじゃない」とからかわれたことがある。口唇期とはフロイトが提唱した人間の発達段階のうち、授乳期の赤ちゃんが口から快楽を得る段階のことだ。この段階で欲求の満たし方に過不足があるとその後の人格発達に影響があるとされている。

 

上司の発言は言い換えると「おしゃぶり離れができてないんじゃないのか」ということで、これはもしかすると図星なのかもしれず、けっこうショックだった(ちなみにその上司はしょっちゅう煙草を吸う人だったので「喫煙者にだけは言われたくない」と思った、実際言った)。

 

結局のところグミは嗜好品だ。あらゆる嗜癖につきものの引け目を、グミ好きも持っている。しかし自覚したところで好きなものはなかなかやめられない。今だって気合を入れて仕事をする時などはやっぱりかたわらにグミがないと寂しい。

 

ところでドイツに行きました

ここでようやく本題に近づくが、先日ドイツへ旅行に行った。明確な目的があったわけではない。同行者が行こうと行ったから、ドイツに住む友人が何人かいたから、たまたま時間に恵まれたから、とその程度だ。事前の知識はあまりなかった。

 

ドイツといえばなんだろう。ある人にとってはビール、ソーセージ、ジャガイモかもしれない。また自動車や、サッカーを挙げる人もいるかもしれない。
私にとってドイツといえばグミである。そう、グミは1922年にドイツのボンで発明された(公式サイト)。生みの親の名前はハンス・リーゲル、あの有名なハリボー社の創業者だ。

 

ボンにはハリボー社直営のアウトレットショップがある。訪れる都市のひとつはボン、と早々に決まった。同行者が会う予定の知人がボン在住だったのは幸いだった。

 

バスでボンに到着

ボンは昔西ドイツの首都だったそうだけれど、想像よりはこじんまりとしていた。長距離バスで日曜日に到着したせいか道路はがらんとして余計に広く見える。1日めはもうひとつの目当てであるケーニヒ・ミュージアムという自然史博物館に行った。まわりには同じような大きくて古い、堅牢なつくりの美術館や博物館が並んでいて、すぐそばにはライン川が流れていた。

 

展示を見終えて電車で数駅移動した。今夜の宿はボン中心部から6キロほど離れた住宅街の中にある。ハリボーのアウトレットショップもその徒歩圏内だ。万事抜かりなしである。

 

宿の最寄り駅周辺は地味な商店街で、いかにも郊外都市の風情だった。小さなお城があるものの観光名所という雰囲気ではない。しかし駅前で大体の物が買えてかつハリボーのアウトレットショップがある街、こんなうらやましい立地があるだろうか。私の家の近くにはコンビニもスーパーも図書館もあって便利だけれど、グミの専門店はない。

 


f:id:hachimoto8:20190529172737j:image

宿の近くで見かけたハリボー・トラック。胸が高鳴る。

 

これがアウトレットショップだ

次の日の午前中、いよいよハリボーのアウトレットショップに向かった。「学生時代、友達の家に行く時よく通ったよね」という謎の偽記憶が想起される平凡な住宅街を通り抜けていくと、それは現れた。

 


f:id:hachimoto8:20190529172817j:image

これがハリボー社直営のアウトレットショップだ。ヒャホー!

 


f:id:hachimoto8:20190529172837j:image

パッケージでよく見るハリボーベア。もちろんこの後ツーショットを撮った。

 


f:id:hachimoto8:20190529172902j:image

店内はとにかく広い。国道沿いの業務スーパーくらいの広さと言えば想像しやすいだろうか。業務スーパーにはありとあらゆる食材があるが、この店にはハリボーのグミしかない!

 

量り売りコーナーがある

日本で見たことのないグミが何十種類も無造作に積まれていてあわや破産、スーツケースがグミで埋まるかと思ったが、うまいことに量り売りコーナーがあった。

 


f:id:hachimoto8:20190529172925j:image

備え付けの袋(でかい)にグミを詰めてレジに持っていくと、重さを量って値段を計算してくれる形式である。一応コーナーのそばにも秤が置いてある。

 

しかもグミの種類にかかわらず1キログラム5.90ユーロ(約720円)とべらぼうに安い。日本だとたとえば定番のゴールドベアで100グラム230円するので、ざっと3分の1のお値段だ。
つまり好きなだけ店内の気になるグミを買って試せるのだ……。

 

興奮しすぎて過呼吸になりそうになってきた。紙袋を口に当てて呼吸を整えつつ、ここからその一部を紹介する。商品名のカッコ内は私が適当につけたものだ。

 

グミの紹介



f:id:hachimoto8:20190529173610j:image

Goldbären Limited Edition(限定版ゴールドベア)
ど定番のゴールドベアだが、その夏限定版。スイカとかドラゴンフルーツとかの味になっている。


f:id:hachimoto8:20190529173618j:image

Ingwer Zitrone(ジンジャーレモン)
絶対おいしいと思って買った。絶対おいしい。

 


f:id:hachimoto8:20190529173644j:image

Phantasia(ファンタジア)
キモいおっさんの妖精、おしゃぶり、魔法の杖、恐竜、羽の生えた豚、ドワーフ、ジュースの瓶などなどの狂った組み合わせ。おそらくファンタジー世界を表現したもので、ドイツのおとぎ話が元ネタになってるんだろうけど詳細不明。

 


f:id:hachimoto8:20190529173735j:image


f:id:hachimoto8:20190529173747j:image

Quaxi
リアルなカエル型。これおいしいよね!大好き!今回の旅でもお世話になった友人からお土産でもらって知った。
日本のPLAZAなどでも時々見かけるが末端価格にして400円はくだらない代物で、0.85ユーロ(約104円)は破格である。
青りんご味の体+カエルらしさを引き立てるお腹側のマシュマロ。口の中でカエルを冬眠させている気分を味わえる。ドイツ人はグミの天才。大きなプラケース入りのを買った。

 


f:id:hachimoto8:20190529173755j:image

Kinder Schnuller(おしゃぶり)
グミなんかおしゃぶりみたいなもん(暴論)なのにわざわざおしゃぶり型のグミを作るという皮肉。グミへの批判的精神が感じられる。

 


f:id:hachimoto8:20190529173830j:image

Vulkano(火山)
これすごいの、中にマグマに見立てた赤くてすっぱいジュレが入ってるんだよ!芸が細かい!

 


f:id:hachimoto8:20190529173839j:image

Crazy Python(クレイジーパイソン)
ただのパイソンではないクレイジーパイソンである。カエルと同じくお腹がマシュマロでできている。グミって両生類とか爬虫類向きなんですね。

 


f:id:hachimoto8:20190529173851j:image

Rock Show(ロックショー)
ギター、ベース、キーボードなどロックバンドの楽器の形。今更言うことでもないけどほんとになんでもグミにするなあ。

 


f:id:hachimoto8:20190529173902j:image

Saure Apfelringe(すっぱいアップルリング)
すっぱいグミが好き、青りんご味が好き。ドーナツも好き。つまり最強。

 


f:id:hachimoto8:20190529173930j:image

BÄRCHEN PÄRCHEN(ペア・ベア)
2つのフレーバーがくっついたクマのグミ。勝手にロマンを感じてしまい、ドリフト・ベアと呼んでいる(パシフィック・リムが由来)。

 


f:id:hachimoto8:20190529173939j:image

Vampire(吸血鬼)
コウモリ型。翼はいろいろな味と色があって、体は黒くてリコリス味。リコリス味私はわりと好きなんだけど、人によっては苦手だろう。よく見るとコウモリの翼や顔も作り込まれててかわいい。

 


f:id:hachimoto8:20190529174003j:image

Kirsch Cola(チェリーコーラ)
コーラの瓶にさくらんぼがあしらわれている。味はそのままチェリーコーラ。「ゼラチン不使用」とのことなんだけど、どうやって固めてるんだろう。たしかにふつうのグミのような弾力がなくて、むっちりした歯ざわり。歯にくっつきやすい。

 


f:id:hachimoto8:20190529174015j:image

Halbmond(三日月)
これもゼラチン不使用。けっこう渋い顔をしている。安部公房の「笑う月」を連想する。

 


f:id:hachimoto8:20190529174024j:image

Weisse Mäuse(白ネズミ)
全身がフカフカのマシュマロでできたネズミ型のグミ!かわいい。悟空が恩人のネズミを口の中にかくまうシーンを再現したい人はこれ。

 


f:id:hachimoto8:20190529174043j:image

Orangina(オランジーナ)
フランクフルトの友人夫婦がくれたもので、アウトレットショップには売ってない。フランス限定らしい。ご当地ハリボー!レア物だ!パッケージのキャッチフレーズも”Haribo, c’est beau la vie...pour les grands et les petits!”とフランス語になっている。

 


f:id:hachimoto8:20190529174111j:image

Goldbären(ゴールドベアの色別売り)
1キロ単位で色別にされたゴールドベアが売られていた。いいなー。私は緑と赤が好きなんだけど、こういうのは色が混ざっているから楽しいんだろうなと思って買わなかった。

 


f:id:hachimoto8:20190529174136j:image

アーノルド・シュワルツェネッガー
変わり種としてこんなのも。非売品で展示のみ。シュワルツネッガー本人からの手紙に「これまで絵に描かれたり彫刻にされたりしたことはあったけれど、グミになったことはなかったと思います」と書かれていてそりゃそうだろうなという感じである。

 


f:id:hachimoto8:20190529174154j:image

Gummi Gaudi(グミガウディ)
おみやげにぴったりな小さな個包装の詰め合わせ。ちょっとした枕くらいのサイズ。Gaudiってサグラダ・ファミリアのガウディか?なかなか言うやんけと思ったが、調べたらバイエルン方言で大喜び!みたいな意味があるらしい。

 

以下はソフトキャンディ部門。

 


f:id:hachimoto8:20190529174214j:image

Balla Stixx
棒状のソフトキャンディ。スーパーで売ってた細いバージョンの青りんご味を食べたけどおいしかった。
固めで無味のチューブの中に、トロッとやわらかめの白いソフトキャンディが詰まっている。なかなか止まらなくなる。

 


f:id:hachimoto8:20190529174250j:image

Blumen Zauber(花のマジック)
金太郎飴っぽいソフトキャンディ。

 


f:id:hachimoto8:20190529174303j:image

(不明)
メモするの忘れた…。めちゃくちゃ不思議な味がする糖衣のソフトキャンディ。
最初に芳香剤みたいな香りがして、甘酸っぱい味に変わり、最後に麦芽糖のような余韻がある。あとこれは湿気て色が変わっちゃったみたいで、本当はもう少し鮮やかな紫。

 


f:id:hachimoto8:20190529174317j:image

Cola Kracher(コーラクラッカー)
コーラ味のソフトキャンディにうすーい糖衣がかかっている。日本のコーラ味とほぼ同じだけど、少しだけドクターペッパーのようなハーブ風味。

 


f:id:hachimoto8:20190529174333j:image

MAOAM Sour Bloxx
マオアムでいいのかな?MAOAMはソフトキャンディのシリーズで、これはBloxxと呼ばれる直方体のもの、かつリンゴやイチゴといったすっぱい味ばかり集めたパック。1本4個入り×5入っている。ハイチュウっぽいけどもっとガシガシしてて固め。これはこれでおいしい。


ハアハアハア…読むの疲れたでしょう?でも買わなかった商品もまだまだたくさんある。ハリボーは幅広い。

 

まだまだあるぞハリボーグッズ

あとこれは日本で手に入らないだろうなと思ったのは、ノベルティグッズ。

 


f:id:hachimoto8:20190529174404j:image

旧デザインのグミベアをあしらったレトロ缶

めっちゃかわいい…かさばると思って買わなかったけど買えばよかった。かわいい~。

 


f:id:hachimoto8:20190529174433j:image

ゴールドベアのキーホルダー

赤、オレンジ、ピンク、白、青、緑、黄色とカラーバリエーション豊富。私は一番好きな緑のを買った。マグネットとピンズもあった。

 


f:id:hachimoto8:20190529174445j:image

ペラペラのバッグ

かわいい。買ったけど絶妙に縦長で何を入れるべきか悩んでいる。

 


f:id:hachimoto8:20190529174506j:image

でかいノート

小学生だったら絶対買ってた。

 

これ以外にもエコバッグ、キャップ、ペン、ハリボーベアのぬいぐるみなどたくさんあった。

 


f:id:hachimoto8:20190529174526j:image

ノベルティじゃないけど気になったのはこの巨大ハリボーベア。コインを入れたら動くのかな。子どもが乗れるタイプの機械仕掛けの遊具もあった。

 

アウトレットショップ、めちゃくちゃ楽しい…。重い荷物を背負ってるの忘れて店の中をぐるぐるぐるまわってしまう。

 

”Haribo macht Kinder froh... und Erwachsene ebenso!”

ところで楽しいという以上に、ぐっときたコーナーがあった。ハリボーのTVコマーシャルを流し続けるテレビである。下はそこで見たCMの一部。

 

www.youtube.com

ドイツ語がわからないので細かい設定は不明だが、落ち込んでいる男の人がハリボーをもらって元気元気!やったー!よかったね!みたいな内容である。

 

www.youtube.com

こちらは昔のCM。アニメーションと、子供と大人による歌がかわいらしい。

 

他にもYouTubeで見つけられなかったけれど、「ハリボーを持つ男の人のところに子どもたちがやってくる。ひとりじめにしたい男の人はとっさにハリボーを隠すのだが…」というストーリーのCMもあった。

 

CMの最後にかかる歌の文句は”Haribo macht Kinder froh... und Erwachsene ebenso!”。「ハリボーは子供を幸せにする、そして大人も」という意味だ。ハリボー社がずっと使い続けているキャッチフレーズである。

 

前述の公式サイト によれば、1930年代当初は「ハリボーは子供を幸せにする」までだったそうだ。1960年代のテレビコマーシャルで初めて「そしても大人も」の部分が加わった。それだけグミの好きな大人が多かったんだろう。

 

このフレーズ自体はパッケージに書いてあるので、以前から知っていた。でも遠く離れたここボンで、グミの生まれた地で、全力でグミが好きなことを肯定されるのは、また違った感慨があった。

 

実際その時店にいるのは大人ばかりだった。みんな嬉しそうで、どことなくはしゃいでいた。大きな体をしたおじさんが、量り売りコーナーにしゃがみこんで次から次へ袋にグミを放り込んでいた。”3kg”と記された恐るべきダンボール箱をいくつもショッピングカートに積んでいる女の人もいた。ベリーショートの女の人は棚をのぞき込みながら、鼻歌まで歌っていた。

 

こうしてグミの聖地で、孤独なグミ好きの魂は救われたのである…というのは言い過ぎだけど、来られて本当によかったなと思った。

 

グミ、好きですか?今度は長い文章をここまで読んでくれた人に聞きたい。
いいよね、おいしいよね、グミ。グミで強靭な歯と顎を鍛えて、この世の悲しいことや苦しいことを咀嚼していきましょう。アウトレットショップも行ってみてね。歯と嚥下能力がないとグミ食べられないから、健康に気をつけて、元気でね。

 

おまけ①BEARS & FRIENDS

ハリボーの回し者みたいな文章を6000文字以上も綴ってしまったけど、ドイツにはBEARS & FRIENDSというグミ専門店もある。大きめの都市でよく見かけた。こちらも紹介しておこう。


ハリボーよりデザインが丁寧で落ち着いている印象で、自転車のやつとか海モチーフの灯台やロブスターが入ったやつとかめちゃくちゃかわいい。

shop.bears-friends.de

 


f:id:hachimoto8:20190529181337j:image

これは以前お土産にもらった脳グミ。脳ですよ。この表面のシワ!しかもミソとして、内側にトロリとしたベリー系のジュレが入っているというこだわりぶり。ドイツ人は万象一切をグミにしようとしているのだろうか。

 

おまけ②歯磨き粉も買った


f:id:hachimoto8:20190529174800j:image

グミへの愛をいっそう深めた旅だったが、グミを愛し続けるためにもっとも退けねばならない敵は何か、そう虫歯である。ということで歯磨き粉も買った。フッ素がいっぱい入ったやつと、ホワイトニングができるやつ。どこの国に行ってもドラッグストアって最高に楽しいですね、その国の人が何を大切にしているかがそこに見て取れる気がする。

点取日記 34 春と鼻

自分ではわりと鼻がいい方だと思っている。

匂いだけでゼミ内カップルの成立を言いあてたとか、森の隠れ家的パン屋にたどり着けたとか、おもしろエピソードを持っているわけではないので思い込みかもしれないが、そこそこ自分の鼻を信用している。

他人との比較ではなく、私の五感の他メンバーに対して、嗅覚はけっこういい位置にいる、という意味だ。

 

あ、今思い出した。鼻がいいエピソードがひとつあった。

高校の美術の時間に友達と絵を描いていて、筆を洗ったらたまたまオレンジジュースそっくりの色水ができて「これめっちゃオレンジジュースやん!」とふざけて鼻を近づけたら本当にフレッシュなオレンジの香りがしたのだ。びっくりして今度は目をつぶってかいでみたら香りが消えた。で、目を開けてもう一回かいだらやっぱりオレンジの香りだった。何度もやっても同じだった。今でも不思議だ。

これ違うな、これは鼻がいい話ではない。脳がアホな話だ。

 

まあそれで今日外を歩いていて思ったのだけれど、京都市って異様にコインランドリーが多い気がする。大阪のベッドタウンで育って、駅前に行けばクリーニング店くらいはあるものの、記憶をさかのぼる限り徒歩圏内にコインランドリーはない。

今住んでいる界隈では布団も洗えるしっかりしたコインランドリー店をちょくちょく見かける。それ以上に多いのが、普通の住宅の玄関まわりを改造しました風のコインランドリーである。洗濯機が3台ほど、乾燥機も2台とかこぢんまりしているけれど数だけでいえばコンビニより多いんじゃないだろうか。自宅前に自販機を置くような感覚なのかもしれない。

 

しかも意外なことにこれらが結構ひんぱんに稼働している。私は道でふいにぶつかってくるその匂いが苦手だ。ウッとなる。

馴染みのない洗剤の芳香と、もわっとした蒸気、汗や皮脂は分解されもはや不快さはないが、間違いなく残っている生物の気配。知らない人の知らない生活の匂いである。そういうものをモロに頭からかぶってしまうと、ものすごく思い上がった言い方だが「こんな細部まで作り込まなくても…」と世界に対してぼやきたくなる。

 

そのわりに古着屋の匂いは平気で、手持ちの服の半分くらいは古着だ。あの甘ったるいガムみたいな匂い。どの街のどんなタイプの古着屋でも、匂いが似通っているのはどうしてだろう。みんな同じメーカーの消臭剤を使っているのか。それとも国外の古着屋はまた違った匂いがするんだろうか。古着にまとわりついているのは、古くなった繊維の香り、混ざり合い平均化された体臭と、ほこりの匂いである。というよりも、ほこりの主成分は布団や服から出る繊維のくずだというから、古着それ自体がほこりの前世といえなくもない。ものによっては、煙草の匂いも染み付いている。

コインランドリーと古着屋、ふたつを比べてみると前者は今現在生きている匂いであり、後者は生きていた匂い、残り香だというのが、感覚を分けるポイントなのだろう。

 

それにしても匂いの話が私は好きだ。色の話をしろと言われたら早々に行き詰まってくだらない豆知識を披瀝してしまいそうだけど、匂いの話だったら「流行ってるメガネ屋のそばを通ると鼻の奥がチリチリする」とか「猫は体の部位によって少なくとも7種類の匂いがあると思う」とか延々と話せる。

 

何にせよ日に日に春らしくなり、太陽はまぶしくてあたたかいし植物も元気だし、視覚的にも嗅覚的にも賑やかになって嬉しい限りだ。私が冬を苦手に感じるのは、空気がきりっと冷たくて鼻が利きにくいのも関係があるように思う。

 

実際どうなのかわからないけど、道端で梅の花やら沈丁花やら、ぬかるんだ地面やらよそん家の煮物やらをかぎ分けるのに忙しいので、今日はこのへんで。

 


f:id:hachimoto8:20190321225603j:image

「時計をおくらせたのはだれだ 5点」

時計が遅れているのに、5点というどっちつかずな点数なあたり、作者が遅れる快楽みたいなものを感じているのが垣間見えて結構好きですね。