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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

夢日記:虫かごのスズメバチ

街中の花壇や車止めを疾走する一風変わったマラソン大会のために大病院の庭でトレーニングをする。芝生の上でストレッチしていると、そばに虫かごが置いてあることに気付く。虫かごにはアマガエルが一匹入っている。病院の先生が長期入院患者の心をなぐさめるために飼っているのだ。虫かごには新鮮な枝葉や、隠れ家になるプラスチックの小屋なども入れられていてなかなか快適そうに見える。しばらくストレッチを続けたあと、もう一度虫かごをのぞいてひどく驚く。先程まではいなかった大きなスズメバチが入り込んでいるのだ。スズメバチは鶏卵ほどの大きさがあって、お尻の針は鋭く、黒と黄色の体色は鮮やかでフィギュアかおもちゃみたいだ。スズメバチが仰向けになって白い繭をくるくると脚で回していることから、これは女王蜂だとわかる。蛙は蜂の存在に気付いているのかいないのか、のそのそ小屋に入っていって動かなくなる。気付いたとしても体格差がありすぎて蛙に勝ち目はないだろう。そうしている間にもスズメバチは繭を回し続け、表面がだんだん白から茶色へ変わっていく。スズメバチは繭を抱えて虫かごの蓋の網目にくっつける。繭に亀裂が入ってするりと脱げ落ち、中から茶白まだらの泡が出て来る。泡が少しずつ弾けて消えると、下からお馴染みの巣が現れる。こんなふうにスズメバチの巣ができるなんて知らなかった。女王蜂は元いた場所に戻り、葉っぱにたくさん卵を産みつけている。サヤインゲンのような細い緑の鞘に白い斑が入っていて、先端には黒い毛がふさふさと生えている。ここから第一世代の働き蜂が生まれるようだ。早くなんとかしないとアマガエルが危ない。しかし女王蜂の針が怖くて手を出すことができない。じきに虫かごの中は生まれてきた働き蜂でいっぱいになるだろう。私にはどうすることもできない。

いい匂いのまばたき


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「あっ。またやっちゃった」という事柄が誰の生活シーンにもあると思う。その人のある性質によって、または複数の性質の巡りあわせによって繰り返される小さな過ちが誰にでもあると思う。いわばプログラムのエラーであり、週に数度、人によっては毎日のようにやってしまうバグだ。しかしそれは些細な間違いで、些細であるためになかなか改善されない。もっと重大な欠陥、たとえばすぐ浮気してしまうとか、すぐ神社の絵馬を盗んでしまうとか、11月の夕暮れの踏切で信号音を聞き続けるとつい奇声をあげながら近くのお年寄りを次々に突き飛ばしてしまうとかであれば、人生の課題として認識できる。些細な間違いはそうはいかない。朝の通勤電車には、そうしたエラーを抱える人で今日もいっぱいのはずだ。
 
私は毎朝起きると眠い目をこすりこすり、布団を整え、寝落ちしていたらシャワーを浴びて、ごはんを食べ身支度をしてマンションを出る。最近化粧の時に香水をつけるようにしているが、なかなか気に入っている。PATCH NYC というアメリカの練り香水だ。ネットで見かけて容器に一目惚れし、ニューヨークに行かなければ買えないと思って悔しがっていたところ、偶然手に入れた。約束をすっぽかされて時間つぶしに入った雑貨屋で売られていたのだ。いくつも種類があるけれど、さんざん迷って鹿の絵の描かれた練り香水を選んだ。香りの成分はヒマラヤ杉、コリアンダー、レモン、ラズベリー。女性的過ぎず、ちょっと不思議な感じがするところがいい。左手で小さな容器を持ち、右手の中指で固いロウ状の練り香水をくるくるととって、首の左側と左手首に塗る。容器を持ち替えて左手でも同じことをする。鼻はいい方なのでほんのちょっぴりしかつけない。そしてよい気分で鞄を持って仕事に出かける。
 
ここからがエラーの話なのだが、私は家から会社へ向かう電車の中で絶対に目をこすってしまうのだ。ヌルッという感触がして、あっ、またやってしまった、と思う。中指に残っていたさっきの香水が目頭にくっつく。皮膚につけるものだから問題ないかもしれないけれど、目の周りは皮膚が薄くて心配になるし、なんとなく違和感が残る。
練り香水を使うまで自分がどれだけ中指を使っているか知らなかった。私の手は中指が一番長く、人差し指より1センチほど突き出ている。注意して自分の行動を観察していると、エレベーターのボタンを押すのも中指だし、紙の感触を確かめるのも中指だし、鞄の持ち手を引っ掛けるのも中指である。クソ野郎に突き立てるための指だと思っていたが、長くてすごく便利なのだ、中指は。

 

エラーには気づいたが、改めることはなかなかできない。今日も目からいい匂いをさせて電車に乗っている。

メレンゲの(作り方を発見したいという)気持ち


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昨日、真夜中にチョコレートケーキを焼いた。レシピ見ながら作ってて思ったんだけどこのレシピってやつはほんとにえらい。私みたいな普段お菓子を作らない、物覚えの悪い人間でもレシピ通りにやればちゃんとそれなりのものができる。レシピには気が遠くなるほど昔からの人類の知恵が詰まっている。チョコレートケーキを作る工程には「卵白を泡立ててメレンゲを作る」っていうのがあって、私は面倒くさがりなので泡立て器でブイーンとやって済ませた。覚えてないけどかかった時間は10分とか20分とかそんなもんだろう。いやこのメレンゲというのもすごくて、誰かが「卵から卵白だけとってそれをかき混ぜ続けたらふわふわのができるやんけ!」と発見したわけだ。その人に聞いてみたい。なんでそんなことしようと思ったの?暇だったの?しかも昔は泡立て器ないから手でひたすら混ぜるしかない。私が思うにメレンゲを発見した人はその時何か嫌なことなあったんじゃないかと思う。ひとつのことをやり続けると気持ちが落ち着くから。何はともあれ、メレンゲを発見した誰かのおかげで今日私たちはいろんなおいしいお菓子を食べることができる。
 
「なんでそんなことしようと思ったの?」という人類の発見はたくさんある。腐った豆を食べる。実を焙ってひいてお湯で濾して飲む。芋の粉に水と灰を混ぜて煮る。食べ物以外でも。大きな動物の背に乗る。地面を掘って水を出す。毎日星を見続けて自分たちのいる場所を知る。無数の発見が蓄積された現代に私たちは生きている。知恵がきちんと受け継がれるという前提において、人類の黎明期(がいつなのか、今なのか、わからないけど)に生まれるより、後の世に生まれる方がおそらく快適だ。
 
けれども、私はメレンゲや納豆やコーヒーやコンニャクの作り方を発見した人たちのことが少しうらやましい。私だって馬に乗ったり、井戸を掘ったり、天測航法を編み出したりしたかった。自然を利用する大体のことは先人がやり尽くしていて、今人類がやっていることはその応用の応用の応用の応用だ。こうなると技術は細分化されて、一生活者が広く世に根付くような発見をするのは相当難しい。「アリジゴクの幼虫はうんこもオシッコもしない」という話があって、これを覆した研究があるんだけど、そういう定説を覆す話にも憧れる。小学生がその説を夏休みの自由研究で確かめた、なんて聞くと本当にうらやましい。うーらーやーまーしーい。現代であっても興味を突き詰めていれば新発見が得られるかもしれないのはロマンがある。快適な生活でできた余裕でおかしなことを粛々やっていくしかない。私の発見をひとつだけお教えしましょう。唾は口の中で転がし続けると味が変わります。はーあ、だめだだめだ。

物に話しかけられる恐怖について


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待ってほしい。幻聴の話じゃないから心配しないでほしい。たしかに私は幼少期に想像力が強すぎて少々集団生活が困難だったけれど今日はその話ではない。
こんなことがないだろうか。あなたは昼飯を食べ損ねた午後4時、ラーメン屋のカウンターでひとりラーメンをすする。お腹が減っているのでレンゲを使ってスープまで丁寧に平らげる。若干塩分の摂り過ぎかもしれないが気にしない。減塩は明日からだ。と、かさが減って露出したラーメン鉢の底に、何か書いてあるのをあなたは見て取る。
 
「またのお越しをお待ちしています」
 
あるいは、こんなことがないだろうか。不摂生という名の焼け石に水をかけるべくあなたはコンビニで紙パックの野菜ジュースを購入する。飲みやすくておいしくて、これではどうも体にいいことをした気になれない。ジュースはあっという間になくなり、あなたは心の中で駅前のスポーツジムの無料体験に申し込むことをそっと決意する。ズルズル鳴るまでジュースを飲んでから紙パックの上の耳を開いて、下の耳を開いて、両手に力を入れる。すると底面からこんな文句が現れる。
 
「たたんでくれてありがとう」
 
私はこの手の話しかけてくる商品が苦手だ。なんと言ったらいいのか、なんの気なしに木の皮をめくったら休眠中のカメムシがビッシリ、みたいな気持ち悪さがある。至近距離に息づいているものが実はいたという感覚。特定の行動をとらないと気付けないのも暗号のようで不気味だ。そして何より、物が話しかけてくる時、私は応えることができない。一方的に話しかけられて終了。こんなところにコミュニケーションはない。理屈としてはもちろんわかる。ラーメン屋の主人が、飲料品メーカーの人が、「またのお越しをお待ちしています」「たたんでくれてありがとう」と言っているのだ。けれどこの気持ち悪さはどこにも持っていきようがない。
 
仕事でくたくたになり、甘いものが欲しくなってチェルシーの飴を買った。オフィスで開けてひとつ取り出したら、
 
「リラックスしてね」
 
そう書かれていた。
 
疲れていたせいもあって体の力が抜ける心地がした。
お前もかチェルシー。お前もなのか。小学生の頃は少し大人っぽい、特別な飴として流通していたチェルシー。お前までなれなれしく私に話しかけてくるのか。外袋を見ると、この飴を配って周りの人を和ませろという旨が書いてあった。私が?物に印刷された言葉を?自分の言葉として他人に配る?
 
それで、私が、どうしたのかというと、手近な人に配りまくった。普段なら絶対しなかったと思う、でも疲れてヤケクソだったし、袋いっぱいの言葉の死骸を抱えていられなかった。周りのデスクに放り投げるように配った。誰にどの言葉をあげるか選びもしなかった。
何人かに配ったら不思議と清々しい気持ちになった。「いつもありがとう」は同期へ、「これからもよろしく」は斜向かいの先輩へ、「ENJOY THE DAY」は隣の先輩へ、「笑顔がステキ」は通りすがりのデザイナーさんへ。誰ひとり飴に書かれた言葉を真に受けていなかったけど、飴に一方的に話しかけられたのとも違う、脱力したリアクションだった。言葉は私のものではなかったが、同時に私から発せられていた。
物に話しかけられる気持ち悪さはそこにもうなかった。私が物だった。励ましの言葉を吐き出すガチャガチャだった。
 
 
 
 
よんでくれてありがとう