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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

点取日記 40 朗読会

先日の2月15日土曜日、本町のtoi booksで行われた「第4回北野勇作朗読会」に呼んでもらった。人前で朗読をするのは、ここ数年に限って言えば、昨年12月の「犬街朗読会」以来2回目だ。

 

朝起きて少し仕事をしてから、今日朗読するテキストの折本データを8P折本ツールで作った。コンビニでプリントアウトして折り目を付けて真ん中に切り込みを入れ、折って整えたら完成だ。便利な時代。

 

17時半すぎにtoi booksに着くと、店主の磯上さんが会場の準備をしているところだった。窓の方を指し、北野さんがあちらに来てますよ、と言わはるのでそちらへ回ってみると、北野さんはソファに腰掛けて作品をさらっていた。今日の流れについて簡単に話した。お客さんたちがぽつぽつとやってくる。知っている人の顔も二、三ある。着脱式の自転車ライトを取り出してネックレスに引っかけた。暗闇朗読の徒である北野さんは、会場を暗くして手元をヘッドライトで照らしながら朗読するので、私もそれに習うことにしたのだった。角度を調整するといい具合に光が当たる。

 

じきに朗読会が始まった。はじめに北野さんが朗読について話しながらキャンドルに火を灯す。つい4ヶ月前、第2回の朗読会でお客さんとして正面から見たのと同じ風景が、今日は右側にあってへんな感じ。ひとつめの短編「かめのくに」で、あっ、「模造亀(レプリカメ)」ものだっ!と嬉しくなる。しかもこのレプリカメ、口がきけるのだった。北野さんの声は穏やかだけれど、お店の奥の壁までまっすぐ届いて跳ね返る。物語そのものも、聞いている人の胸にまっすぐ落ちていっているのが暗闇なのにわかって、ひえー、と思う。翻って私は高校の頃、演劇部で活動していた程度で、朗読はおもに家で自分が楽しむためにやっている。でもここまで来て照れていてもしょうがない。

 

私は自己紹介を兼ねて過去のブログ記事をエッセイに書き直したものと、ブンゲイファイトクラブで決勝に出した「竜宮」を読んだ。エッセイは直前まで迷っていたが、大阪弁で読むことにした。その方が自然だと感じたから。最後の詩も大阪弁で読んだ。昔、朗読用に書いて結局読まなかった詩の供養ができてよかった。

 

エッセイを読み終わると、北野さんが「浦島太郎」のフレーズをトランペットで吹いてくださった。少し緊張が解けたせいかぼうっとしてしまい、遠くの世界から聴こえてくるようなラッパの響きも相まって、途中でどこを吹いているのだかわからなくなった。いろんなものの境目に足をかけて立っているような心地だった。エッセイと小説の境目とか、現実と虚構の境目とか、出演者とお客さんの境目とか。「竜宮」は書いている間に百ぺんほども音読したし、犬と街灯の朗読会でも読んだので、さほど難しくはなかった。それでも自然に体が動いたり、台詞の解釈が前と変わったところもあって、そこが面白いと言えば面白い。

 

一旦灯りを点けてトークが挟まった。飼っている亀の話。「泥世界」(©謎解き!ハードボイルド読書探偵局)シリーズの話。落語と演劇と朗読と小説の話、などなど。

 

トークが終わって、ふたたび北野さんの朗読。「砂のある風景プラス」と題したほぼ百字小説と、「蛍雪」という短編。質疑応答でほぼ百字小説から落語のSRを連想しました、と言った方がおり、そうか!とびっくりする。北野さんがまさに、と身を乗り出していた。

 

朗読会が終わったあと、ブンゲイファイトクラブジャッジの道券はなさんが来られていたことがわかった。「あっぱれ! Vol.5 憑依」の短編が面白かったです。好きです。それから、あやのさんのTwitterを見て来ました、と声をかけてくださった方があり、意外な嬉しさだった。

 

北野さんと磯上さんと、犬と街灯の谷脇氏とでご飯に行くことになった。話題はこれからの出版や書店の話や、旅先で小説を書くことについてや、いろいろ。磯上さんの話は商いをする人の手触りがあって、業界違いの私には染みる。ペンネームのことを聞かれ、頭の中がいつも雑念でうるさいんです、蜂の羽音なんです、と言うと、北野さんにスティーブン・キングの『シャイニング』や村上春樹の『遠い太鼓』にも頭の中の蜂が出てくると教えてもらった。もともとa bee in your bonnetというクリシェからとったものだから、そういう合致もあるかもしれない。

 

店を出ると北野さんは自転車で帰りますと言って、近くに停めてあった赤い自転車に乗って去っていった。谷脇氏がぽつりと「あれが娘さんを追い抜いた自転車……」とつぶやいて、思わず吹き出したが、なかなかほろ苦い、良い心持ちで自転車を見送った。

 

その日は実家に帰って休み、翌日親の本棚から『遠い太鼓』を抜き出してきた。始めの方を読んでみるとたしかに蜂について書いてあった。蜂のジョルジュと蜂のカルロがぶんぶんぶんと頭の中を飛び回ってうるさいので旅に出ることにした。そんな冒頭だ。私の蜂の名がなんというのだか知らないが、彼らにはなるべく好きに飛んでいてもらって、うまく付き合えないものかと思案している。

 


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「入学しけんには合格する 9点」

 

やったー。でもそもそも入学しけん受けたくないけど。

 

【最近よかった曲】

折坂悠太「道」「芍薬」など

キセル「くちなしの丘」

点取日記 39 浅知恵(ほのおタイプ)

週の前半から体調を崩してしまい、うっすら風邪をひいている。なんだかへんな喉風邪で、病みががりによく感ずる、血の臭いのする息が喉からあがってきて、木曜日にとうとう熱が出た。

そのせいで今週はあまり本を読んだり、ラジオを聴いたりもできなかった(いかにも言い訳がましいが)。

朗読の練習は毎日続けられたけれど、平気だと思っていても5分10分読むと苦しくなってくるので、休み休みやる。

読んだなかでは、『kaze no tanbun 特別ではない一日』の上田岳弘「修羅と」が詩のようであり、演劇のようであり、擬音もあって楽しかった。

 

今週印象に残った考えごとは、

 

・ほのおタイプの浅知恵

・twiccaの死

 

のふたつです。

 

ほのおタイプの浅知恵

体調が悪いと、妙に工夫した料理をしようとする癖があることに気がついた。

 

「凝った」ではなく「工夫した」というのがポイントだ。豪華な材料を買って絢爛な料理をつくるわけではない。手近な食材と道具をうまく組み合わせて、要領よく一石二鳥的な料理ができないか、という方向に頭が回りだすのである。そして大体、ろくなことにならない。

 

今回の現場は冬の間使っているアラジンの灯油ストーブであり、まず標的となったのは食パンと卵とチーズのみなさんだった。

日曜日の朝、起きてすぐに仕事を片付けはじめたので朝食が遅くなり、11時ごろにいつもより豪勢なものが食べたくなった。たんぱく質どっさり乗せみたいなオープンサンド食べたい。わき目もふらず食べたい。

ところで私の家にはオーブントースターがない。いつもは食パンを焼き網に乗せてコンロであぶって片面ずつトーストしている。

 

そこでひらめいたのが、ストーブの熱を利用する方法だ。アルミホイルに具材と食パンを包んで、ストーブの天板で焼けばオープンサンドっぽいものができるのではないか。

アルミホイルを四角く切って浅い皿の上に置いた。生卵を割り入れ、上にとろけるチーズ、食パンの順に乗せる。

食パンの下からはみ出そうとする黄身に苦労しながらも、なんとかアルミホイルで包み込むことができた。よしよし。

あとはこれを火の点いたストーブの上に置くだけだ。部屋はあたたかくなり、オープンサンドも焼ける。これすなわち省エネなり。

 

ところができあがったのは、湯気でふにゃふにゃに蒸されたパンに卵とチーズが渾然一体となってこびりついた、なんとも残念なものだった。

そもそも具材の大半がアルミホイルに焼きついていて剥がれない。せめてサラダ油を塗っておけばよかったと悔やんでも手遅れだ。

泣きたいような気持ちになりながら、スプーンで卵とチーズをこそげて食べた。

 

続いて月曜日に犠牲者となったのは、まる餅である。

お正月に実家でお餅のうまさに目覚めて、先日スーパーで安く叩き売られていた1kgパックのまる餅を買った。小腹が空いた時に都度焼いて食べるとこれがなかなかちょうどいい。

しかし惜しいのは、小さな餅ひとつを焼くためにいちいちコンロを点けなければいけないことだ。餅に必要な熱源は、せいぜいコンロ全周の1/4ほどなのにもかかわらずである。

 

そこで思いついたのが、ストーブの熱を利用する方法だ。もちろんいくつかの課題もあった。

天板に直に餅を置くのは愚の骨頂。べとついた餅が焦げつくのは目に見えている。コンロの時と同じく焼き網を使うのが妥当として、問題はこの焼き網が焼き網とメッシュ網の二層構造になっている点だ。コンロに乗せると火との距離がちょうどいいように計算されているため、ストーブでは熱源が遠すぎる。幸い、ふたつの網は固定された1辺が関節になって直角に開けるから、天板に焼き網が接するよう、L字型に開いたそれを天板にそっと乗せればよいだろう。部屋はあたたかくなり、餅も焼ける。これすなわち省エネなり。

 

大間違いの馬鹿野郎である。時をさかのぼってひとつひとつ自分に忠告してやりたい。餅は天板に置くと焼けるのに時間がかかり、さりとて天板の穴の上に置けばすぐに焦げるぞと。うっかり目を離した隙に大きく膨らんで網にへばりつき、その部分は真っ黒な炭になるぞと。熱い餅をひっくり返す際、その炭が天板に散らばって結局汚れるぞと、あと餅は動くぞと。

餅は動く。餅はふくらみを利用して網の上を移動する能力を持っているうえ、ピタゴラスイッチ的にメッシュ網がばちんと閉じて、大きな音にびっくりさせられることもしばしばだ。そしてこのメッシュ網に付いている取っ手が熱いのなんの。

餅はおいしかったのでそこはよかったが、結果的にはコンロで焼くよりも大きな心理的コストを払わされてしまった。

 

なんか最近こういう話を読んだと思ったら、大前粟生『のけものどもの』の収録されている「脂」という掌編だ。(お正月に惑星と口笛ブックスパスを買いました)

ぜんぜんお金がなくて、ぜんぜん大丈夫だと思えなくて、財布のなけなしの小銭で豚バラブロックを買い、それをワイルドに焼いて食べることで再起動しようとする話なんだけど、読んだ時おののいた。私もほぼ同じ行動をつい2ヶ月ほど前にしたからだ。私の場合は半額のアンガス牛だったけど。安い肉ゆえの脂の悪さとか、かじった瞬間の「そうでもない」感じとか、描写がリアルで本当に最悪(つまり最高)。

 

落ち込んだ時急に奮発して肉を焼いたり、体調不良に抗うためにストーブで調理をし始める時の自分を分析してみると、まあなんというかはっきり言って、浅知恵にすがりたい状態だなと思う。ほのおタイプの浅知恵だ。たぶん、一種の防衛反応なのだろう。

 

心や体が弱っているからこそ、なんとかして回復に努めているのではないか。たとえば野生生物なら落ち葉を集めて寝床を暖かくする、とか新鮮な臓物を食べる、といった行動をとるところを、私は人間なので火に頼る。

 

思えば幼少期から、ものすごく熱くなる読書灯で餅を焼こうとしたり、祖父母の家のこたつで餅を焼こうとしたりと、家具の熱を利用しようとしては失敗を重ねてきた人生だった。大人になって多少の自制心が芽生えたものの、危機を感じると子供の頃と同じ過ちをくり返してしまう。しかし不調な時にひらめく工夫などたかが知れているのである、なぜなら私の頭こそ熱に浮かされているのだから、ああ、半端にうまいこと言ってしまった最悪……自分の文章力が憎い……。

 

ちなみにこの性質がうまく働く場合もあって、そのあとにストーブで炊いたおでんはとてもおいしかった。具材を追加して今は第二弾を煮込んでいるところだ。すべて白ごはん.comのおかげである。ネットのレシピは現代社会の知恵の実。

 

twiccaの死

1月15日、長年使ってきたTwitterクライアントのtwiccaが完全に機能を停止した。

早朝は使えていたのだが、午前中にまったく読み込めなくなった。Twitterの公式アプリで確認するとトレンドにtwiccaが浮上していて、そこで自分だけではないことを知った。

 

あら残念、と流してすぐ次を探すには、私はtwiccaを長く使いすぎたと思う。不便になるなあ、という感想も少し違う。長い時間をかけてtwiccaは少しずつ不便になっていたからだ。

 

Twitterを始めた10年ほど前は、今ほど公式アプリの機能がよろしくなかった。クライアントがいくつもリリースされて市場を争っていた。いくつか試したなかでtwiccaはもっとも動作が軽く、デザインがよく、文字が見やすいアプリで、以降私のTwitterは常にtwiccaとともにあった。

今軽く計算してみたところ、今年の夏で私は人生の3分の1以上をTwitterとともに過ごしたことになるようだ。おそろしい。

 

公式アプリより便利なアプリとして登場したtwiccaだったが、2015年に更新を停止し、Twitter側の変更に少しずつ付いていけなくなった。

時期は覚えていないのでばらばらだが、Favの星マークが「いいね」と「♡」というなんだか浮ついたものに変わっても、twiccaはずっと星のままだったし、アイコンが丸型に変わっても、頑なに四角いアイコンを保っていた。それにはどちらかというと好感を覚えた。

 

しかし140字の文字数制限が緩和されてから、表示に不具合が出るようになったのには困った。ツイートが尻切れトンボになってしまう。このあたりでサブとして公式アプリを入れた記憶がある。スマホにふたつもTwitterのアプリが入っているのはへんだけど、慣れ親しんだtwiccaを手放したくなかった。

 

画像はいちいちURLをクリックしなければ表示されないし、動画やgifにも対応しておらず、公式アプリを立ち上げなければ見られなかった。ブックマークもモーメントも投票ももちろんなし。スレッド式の投稿もできない。DM機能は途中で使えなくなった。この頃になると、同じTLでも公式アプリの賑やかな印象に比べて、twiccaがしんとした廃墟みたいに思えた。そして今回の完全停止を迎えた。

 

まだアンイストールする気になれなくて、スマホの画面のいちばんいいところにtwiccaを置きっぱなしにしている。ひょっとしたら万が一復活することもあるかもしれない、という望みが拭えない。

 

今は公式アプリを使っている。とても見やすくて快適だ。そのことがさみしい。

 

 

「あんまりお金を使うな 2点」


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私と「脂」へのアンサーじゃん。

 

【読んだ本】

『kaze no tanbun 特別ではない一日』

 

【良かったMV】

chelmico『Easy Breezy』MV

https://www.youtube.com/watch?v=76sNmqMzUuI

点取日記 38 ドズボラの正月

あけましておめでとうございました。

 

ひさびさにログインしたら最後に更新したのが昨年9月21日。そんなにほっぽってたのかと驚いた。

去年は9月末にブンゲイファイトクラブへの繰り上げ出場が決まり、11月後半まで1作品たった6枚とはいえ必死で読んだり書いたりする生活をしていた。12月には打ち上げに参加するため東京にも行った。その節はありがとうございました。さまざまな節。

 

年が明けてからEvernoteで日記つけるのを3年ぶりに再開した。ひとまず11日続いたのでそれを抜粋してまとめるような形でブログを更新している。

だいたい日記でもブログでも、広く読まれるものではないのに勝手に面白さのハードルを上げようとして強迫観念にかられ1日数時間とかかけるようになり自滅、をくり返すので、なるべくそうならないように淡々と続けたい。

 

年明けてから自分の中で熱かったトピックは、

 

・「2020年にしたい100のこと」リストを作ってみた

・朗読がむずかしい

・『映像研には手を出すな!』のアニメが最高

 

の3つです。

 

「2020年にしたい100のこと」リストを作ってみた

いやこれはなんかseramayo.comさんとかですね、リアル知人とかTwitterで流れてきた記事とかですね、けっこうみんなやってるんで、やったらいいことあんのかな~と思ってですね、まあやらないよりはやった方がいいでしょうからね、といきなり弁解から入ってしまうことからわかるように、自分と相性の悪い行いだと自覚はしている。

 

考えてもみてほしいんだけど、ドがつくほどズボラな人間が(ドズボラ、って、怪獣か武装組織みたいな響きだな、そういえば正月早々えらいことが起きてしまったな)、よりよい自分であるためのTo doを100も思いつくだけで相当たいへんだ。だからまだリストは100に達していない。88で止まっている。

 

みんなみたいにずらっと100並べて発表するみたいなこともしない。なぜならレベルが低すぎて見せるのが恥ずかしいから。例をあげると「23.床に物を置きっぱなしにしない」「44.お菓子を食べすぎない」こういうレベルです。こういうのが88個あります。

 

今のところTodoistと組み合わせて、部屋の秩序を維持するルーチンを継続するのと、気分が落ち込んだ時に眺めてふむふむそうであったと冷静さを取り戻すのに役立てている。

 

朗読がむずかしい

2月15日(土)にtoi books さんの「第4回 北野勇作朗読会」に出ることが決まり(予約受付中来てね!!!)、ちょこっと朗読もさせてもらうので目下自主練中である。

 

今はおもに仕事の文章を書くのに疲れたタイミングで、気分転換もかねて『kaze no tanbun 特別ではない一日』を1編ずつ朗読している。

ひとりでやってるから音読なのかな、自分を楽しませるために工夫しながら読んでるから朗読でいいと思うんだけど、他人の文章を読むのってけっこうむずかしい。

 

(以下ネタバレしていますが、)

朗読の難しさを感じたのは、たとえば岸本佐知子の小説「年金生活」。一度黙読して内容を把握していたにもかかわらず、私はこれを朗読しながら後半で泣いてしまった。

 

エッセイにも通じる岸本佐知子の文体で、ある老夫婦の年金と<ねんきん>が淡々飄々と語られていく。なんにでも変化してなんでも直してくれる<ねんきん>の不穏な活躍ぶりは痛快で、前半はむしろ笑いをこらえるのがたいへんなくらいだ。

けれども、<ねんきん>が数十年前に事故で亡くなった娘の形をつくり出すくだりに差しかかると、感の極まりが止められずに、どぼどぼと泣いてしまうのである。

すると当然声はふるえるし、かすれて途切れるし、鼻水が出て鼻声になるし、目がかすんで文字が追えなくなる。

それだけ主人公に移入できているとも言えるけれど、人に聴かせる朗読としてはやはり具合が悪い。

朗読者があまりにテキストにのめり込んでいると、聴いている方は置いていかれる気もするし。むずかしい。

 

日和聡子「お迎え」もまた違ったむずかしさだった。

ある日のある幼稚園の、親がなかなかお迎えに来ないふたりの園児と、その子らの面倒を見ようとする先生のやりとりが描かれているのだけど、作中で先生は園児たちに紙芝居の読み聞かせをするのだ。

つまりすでに朗読をしているのに、さらに朗読をしなければならない……のが、案外むずかしい。もちろん大人がおもに大人に向かって朗読するのと、幼稚園の先生が小さな子供に朗読するのでは、ずいぶん勝手が違う。油断すると、地の文で読み聞かせ風の抑揚をつけてしまったりするのでたいへんだ。

 

さらに言えば、私は仕事でときどき幼稚園に出入りしているので、幼稚園の先生が普段から園児にとって可聴性(という言葉はあるんだろうか)の高い話し方をしているのも知っている。言葉の区切り方や語順や抑揚がかなり独特に洗練されていて、あれは一種の職人技だと思う。現場に行くと毎回拍手したくなる。

 

というわけで、理想的には高速でトーンを切り替えながら、地の文/先生から園児への台詞/園児のあどけない台詞/紙芝居の読み聞かせ/先生から先生への(大人同士の)台詞、を渡り歩かねばならない。む、むずかしい……。

これはあながち私だけのこだわりではなくて、テキストにはそれら音の違いがはっきり示されている。園児の台詞はひらがなで書かれているし、園児が理解できないまま発した言葉はカタカナだし、読み聞かせの場面は絵本風の文節分かち書きだ。先生が園児に語りかける台詞になると読点が増え、一音一音はっきり発音する言葉はナカグロで強調される。

すさまじく耳の良い小説だ。だからたとえ自主練でも朗読するなら応えたいのだが、本当にむずかしい……。

 

それだけに、地の文だけが置かれた最終ページは、突然それら音のくびきから解放されたような感覚があって、とても気持ちがよかった。

音をともなう言葉は基本的に、個々人同士の関係を反映するし、個から別の個へ影響をおよぼすために使われる。そこから逃げ出す最終ページ。

朗読しなければこういうことに気がつかなかったと思うから、これはよかった。

 

『映像研には手を出すな!』のアニメが最高

みなさんはNHKで放映された『映像研には手を出すな!』のアニメ第1話をご覧になりましたか。見てください。高校生の女の子三人組がアニメを作る話です。明日(日曜)のド深夜に第2話をやります。見て!!

 

もともと1巻から原作を追っていて、アニメ化のニュースを知ってできんのかいと思ったけれども、監督が湯浅政明と聞いた時点でいっさいの心配が霧消した。『カイバ』も『四畳半神話大系』も『ピンポン THE ANIMATION』も大好きだし。

でもほんとにあんなレベルでアニメ化するとは思わないじゃないですか。最高最高。ありがとう。

 

アニメそんなに見なくて年2本も見れば多い方なんだけれども、ひさびさにアニメをコマ送りで見ました。「アニメーション」だ!!OP映像もこの1週間で数え切れないほど視聴している。

細部がめちゃくちゃすごいんですよ。カイリー号を手で押す水崎氏の、作業着とスカートのはためきで泣くほど感動してしまう。風が吹いてる!

演技もめちゃくちゃいい。浅草氏の「ッ 水崎氏も、絵、描くんすか? アハ」の半角では足りない0.25角くらいの言いよどみとか。

原作からの改変ポイントがことごとくはまってて、とくに金森氏の「水崎さんと友達になってくださいよ」の使いどころと、夕映えの窓ガラスを撮影台がわりにしたのは天才天才大喝采でした。

 

あとみんな大好き金森氏が私も大好きなので、金森氏のカットが美しいだけで100億点加点してしまう。牛乳ぐびぐび飲んでスヤスヤ寝てにょきにょき育ちましたという感じで、それでいてあの顔と性格なのが本当に良いですね。

アニメオリジナルの場面で、誰にも気づかれないまま暴れる洗濯機を押さえて作動させる金森氏、ともすればただのエネルギーの暴発で終わってしまうクリエイターふたりを抱えたプロデューサーとしての今後を示唆していて最高でした。

怒ると眉間まわりに容赦なく皺が寄るところも大好きなのでアニメにも期待しています。しかしどこまでやるんかね。風邪森とか、ちび森とかやるんかね……死んでしまう……。

 

 

【読んだ本と漫画】

雛倉さりえ『呼吸する町』

Qへい『Rebirth』

神沢利子『銀のほのおの国』(再読)

斉藤倫『レディオ ワン』

大童澄瞳『映像研には手を出すな!』1~4巻(再読)

大竹昭子のカタリココ 高野文子 「私」のバラけ方』

北野勇作『恐怖』

 

【ドラマ】

刑事コロンボ「逆転の構図」

 

【良かった音楽】

折坂悠太「トーチ」

chelmico「Easy Breezy」(OPサイズ)

 

「お前のことならなんでも知っている 8点」


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2020年最初のおみくじ的なものが点取り占いになってしまった。

この内容で8点の高得点なの意外だな。でもまあまあよさそう。

 

そういえば、今日誕生日を迎えました。コメントとかプレゼントはいらないけど、よかったら心の中でイェーイと唱えてください。イェーイ。

点取日記 37 レイシストおじいちゃんも昔は子どもだったってホントかな

さっさと忘れたい不快な出来事が先日あったんだけど、本当に忘れてしまうのもどうなんだと思い直して自分の心の動きを書き留めておくことにした。

このあいだ仕事で地方の幼稚園を訪れた日のことだ。

 

幼稚園は駅から遠いのでタクシーを使ってよいことになっていた。駅舎の前にいた客待ちのタクシーに乗って行き先を告げると、車は走り出した。

 

中秋の名月、見ました?」と、タクシーの運転手さんが話しかけてきた。60代か、ひょっとしたら70代の男性だが、よく日焼けしているのでわからない。

「あ、今年もう来たんでしたっけ。見逃しちゃいました。見たんですか?」と私は返事をした。正直タクシーや美容室では言葉少なく済ませたい方だけど、世間話をふられれば話を合わせることくらいはする。大人なので。

窓の外には田んぼが広がっていて、実った稲穂が一面そよそよ揺れていた。

 

「月には兎がおるんやーいうてねえ、私らも小さい頃教えられて、いっしょけんめい月見てましたわ」

「ああ、お餅をついてるんでしたっけ」

「あれは日本だけですかねえ? そういう昔の言い伝えも、そこの幼稚園の子らは習うんでしょうねえ」

「そうですねえ」

「ほんで、しつけもちゃんとしてるしね。……日本はねえ、すごいですよ」

あ、なんかいやな予感するな、と思った。な、なんかわからないけどものすごくいやな予感がする。

 

「それに比べて韓国や中国の連中は……。嘘ばっかりついて」と、運転手さんは語りだした。

 

「約束は守らず。日本はね、間違ったことはひとっつも! してないですよ」

 

「それを徴用工や、慰安婦や、金のことばっかりいうて」

 

「あいつらは子どもも反日なんです。幼稚園の頃から反日教育をしとるんですよ」

 

私は黙り込んだ。絶句してしまったのもあるし、ここで相槌を打って流すのは簡単だけど、そしたら同意したことになってしまうとも思った。

運転手さんは私がうんともすんとも言わなくなったのに気づいているのかいないのか、ひとくさりぼやいたあと「どう思います?」と聞いてきた。

 

どう思うもクソもあるか。

なんで金払って乗ってるタクシーで、逃げ場所のない密室で、直接向けられたんではないにしろ純度100パーの憎悪と敵意を浴びなあかんのじゃっ。つーかおっさん、月には兎がどうとか言うとったけどそれもともと中国から入ってきたんちゃうかったか。さっきまで中秋の名月がとか風流な話しとったのに、なんで民族差別の演説聞かされなあかんねん。

 

突然の話題でパニックになってしまったが、なるべく平静に返そうと試みた。「国同士の問題はあるし、ニュースも流れてますけど、それに私達が飲み込まれて会ったこともない韓国の人たちを嫌い続けてたら、次の世代までそれが残ってしまうと思います」。なんとか同意と取らせずに切り抜けたかったし、おっさんわかってくれ! という気持ちもあった。

「そらそうですよ! 国民同士で憎み合う必要はないです」と運転手さんはうなずいた。

 

「そやけど日本は戦時中、なんも! ひとつも! 悪いことはやってないんですよ。韓国人は日本に感謝せなあかんのです。ぜーんぶ日本のおかげ。それやのに韓国は…」

 

あー。と思った。あー、あー、あー、早く降りたい。早く幼稚園に着いてくれ。私には運転手さんと真剣に話すだけの時間がなく、知識がなく、ディスカッション能力がなかった。また確たる動機も、そもそもこの人自身に深く関わりたいと思うほどの興味や愛情もなかった。時間通り目的地に着いて、無事仕事を済ませることの方が大切だった。誠実な会話にはコストがかかるな。と思った。

 

結局会話を放棄していたら幼稚園に到着した。やっと逃げられる……。領収書をくれる時に運転手さんが「ほんまはもっといろいろ話したかったんですけど」と照れくさそうに笑った。

 

は?

 

走り去っていく車を見ながら呆然とした。は??? まじか。私が心底うんざりしてたのも、動揺していたのも、伝わってなかったのか。コミュニケーションって、何???

 

動揺したのは日頃触れたことがないレベルの差別感情にさらされたからというのが半分。それから世間話の手札として嫌韓・嫌中が選ばれ、自分はその話題に乗ってくれそうな相手と判断された、というのもショックだった。

世間話といえば無難な話題ではなかったか。たとえば天気の話とか。いや天気の話ですら、雨が降って助かる人と困る人がいるんだからなんて聞いたこともある。それなのにさっきのはなんなんだ。いつもあの話を客に振ってるのか。それで韓国や中国にルーツを持つ人を何人傷つけてきたのか。

 

私の家にはテレビがない。だからあのテレビ番組がひどかった、あの人がこう言ったなどという情報は、間接的には入ってくるが実際に目にすることは少ない。時事問題はインターネットとラジオで補っている。身近な友人にもTwitterでフォローしてる人たちにも、あんな露骨に差別まるだしの人はいない、たぶん。だけどもしかして、信じたくないけどもしかして、今の世間ってやばいのか? 人心、荒廃しすぎでは?

 

仕事前にテンションが地に落ちたが、気を取り直して幼稚園の門をくぐった。玄関には先生たちが立っていて、園児たちやその親や、さらに上の年代の人たちを迎えていた。聞けば今日は祖父母を幼稚園に招く日なのだという。敬老の日が近いからだろう。

よかったら少し見学していってください、と誘われて教室にお邪魔することにした。教室には20人ほどの園児と、そのお母さんやお父さんたち、おじいちゃんやおばあちゃんたちが集まっていた。

 

普段子どもと接する機会がないけれど、こうして少し眺めただけでも大人しい子や乱暴な子や、いろんな性格が読み取れておもしろい。ピアノの前に集まらなければいけないのに、女の子がひとりお母さんに抱きついてべそをかいていて、だれかが「赤ちゃんみたーい、赤ちゃん赤ちゃん」とはやした。

すかさず保育士の先生が「そんなん言わないのよ、こんな大勢の人がいて、先生かってどきどきしてるのに」とたしなめる。ブラボーっ、と拍手したくなった。子どもの気持ちに寄り添うスピードが素晴らしい。

 

先生はピアノを聞かせて子どもたちを落ち着かせたあと、今日おじいちゃんやおばあちゃんも交えて遊ぶゲームのルールについて説明を始めた。けっこう複雑なのに子どもにも大人にもわかりやすい。しかも子どもたちが横やりを入れても自然に受け答えをして、また元の流れに戻っていく。すごい。保育士さんのTEDをやったほうがいいんじゃないか。

 

それを聞きながら、しゅわーっと何かが成仏していくのを感じた。なんだろうと思ったら、さきほどのタクシーでささくれだった気持ちだった。そうだよ、会話って、コミュニケーションってこういうものだよ。なんだか今日という日の天秤が釣り合ったような気持ちになり、心の中であのクソジジイと吐き捨てて、もう忘れようと決めた。

 

 

用事を終え、園内を歩いていたらさっきの教室の前を通りがかった。そろそろ終盤にさしかかっているようだ。ついでにもう少し癒やしをもらおうか、と足を止めた。園児用の低い椅子に腰かけたおじいちゃんやおばあちゃんたちと向かい合うように、園児たちが横二列に並んで立っていた。どうやらこれから歌を披露するらしい。

先生のピアノが鳴り始めた。

 

 

おじいちゃんも 昔は

子どもだったってホントかな?

いたずら ばっかりで

しかられたってホントかな?

だったら ぼくと おんなじだ

いたずらこぞうの おじいちゃん

おじいちゃんもおばあちゃんも(詞:新沢としひこ/曲新沢としひこ)/Hoick楽曲検索~童謡・こどものうたを検索!~

 

 

子どもたちは声をそろえて、というよりも声をそろえようと一生懸命に歌っていた。怒鳴っているような歌い方の子や小さな声の子がいた。おじいちゃんおばあちゃんたちといえばもう、孫の姿にメロメロだった。そりゃそうだろう。

 

歌は二番に入り、「おばあちゃんも 昔は…」と続いていたけれど、私はなんともいえない気持ちで胸が重苦しくなっていた。明るく平和な教室で私だけその場の空気にそぐわなかった。さっき記憶から消去した「クソジジイ」が舞い戻ってきていた。

 

あの人も昔は子どもだった。ほんとかな。ちょっと信じられない。真っ黒に日焼けしてしわしわでだみ声で。だけど小さい頃、月を見て兎を探したのだと言っていた。

 

無垢な子どもだったのにとは言わない。子どもが無垢なだけでないことは、かつて子どもだった私自身が知っている。子どもだってだますし、そねむし、変わり者やはみだし者をいじめもする。

 

それでもひとりの小さな子どもが60年か70年を生きてきて、至った境地がある民族をまるごと憎んだうえに客との会話に使うことなのだとしたら、それってあんまり、それってやっぱり、わびしすぎないか。あの人はたぶん一生その場所にいるし、月に兎はいない。そう思うとやりきれなかった。

 

帰りはタクシーに乗る気分になれなくて、意地で九月の炎天下を駅まで20分以上歩いた。帰ったらとてもくたびれて寝てしまい、起きると下唇に口内炎ができているのに気がついた。ほかの原因に心当たりがないからぜったいストレスだ。畜生、ゆるさねえからな。

 


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「キャッチボールの相手をしてやろう 7点」

 

よくできすぎた偶然は生きていると時々起こるし、注意していればそれをうまくキャッチできる。この日のこの歌もそうだ。

でもしばらくキャッチボールはいいかな…。